2016年03月03日

3月の言葉!「昭和天皇の御製」(大正〜終戦まで)

「昭和天皇の御製」(大正〜終戦まで)

 最近和歌にいそしんでいるということを書きましたら、それを見計らったかのように清水英雄先生から一冊の本が贈られてきました。「昭和天皇御製にたどるご生涯」(湊澄美枝 著)(副題 和歌だけに込められたお心)という400ページほどある立派な表装の本でした。
 御製とは天皇の詠まれる和歌のことをいいます。昭和天皇の残された御製から昭和天皇という方を、昭和という時代を、天皇という存在を、和歌の素晴らしさを、教えていただくには充分すぎ余りある内容でした。
天皇の御名で発表される詔書や勅書は実際には天皇御本人の個人的な表現であるはずもなく、まして戦前においては天皇のお言葉を直に国民に伝えるなどということはあり得ないことでした。
 しかし御製だけは誰からの制約もなく天皇のお心そのままに天皇ご自身のお言葉を三十一文字に込められた唯一の表現形態だったのだと思います。
 この和歌は「古事記、日本書紀」にその端を発し平安時代の「古今和歌集」で平仮名表記を主とする倭歌となり漢の国の漢詩に対し倭の国の歌の完成をみます。それ以来時代を超え和歌は天皇にとって《神に祈る》ための主たる表現であり、天皇と神をつなぐ表現方法であったと著者は述べています。いわば天皇の祭祗には必要不可欠なものなのです。

 この本で昭和天皇の登場は大正10年の御製からです。
昭和天皇は明治34年4月29日第123代大正天皇の第1皇子として御誕生されました。
母后は公爵九条通孝第四女の九条節子(サダコ)様です。
大正10年11月25日22歳の若さでご健康に問題のある大正天皇の摂政官にご就任されています。
その時の御製
   世の中も かくあらまほし おだやかに
     朝日にほへる 大海の原                (大正11年)
 いつの世にも常に平和を希求される御心はその当時から脈々と生きつながっています。

   立山の 空に聳(そび)ゆる ををしさに
     ならへとぞ思ふ みよのすがたも            (大正14年)
 
   広き野を ながれゆけども 最上川
     海に入るまで にごらざりけり             (大正15年)
大正14年は福井、石川、富山で大正15年は東北地方で陸軍特別大演習が行われた時の御製だそうです。立山や最上川の風景にご自身の念いで重ね合わせての雄大な叙景詩がつづられています。
   あらたまの 年をむかへて いやますは
     民をあはれむ こころなりけり             (大正13年)
 大正12年の関東大震災が起きた翌年の正月の御製です
そして昭和天皇の御代となり実質的に初めて公となる昭和3年の御製

   山山の 色はあらたに みゆれども
      わがまつりごと いかにかあるらむ             (昭和3年)
 
   ゆめさめて わが世を思ふ あかつきに
      長なきどりの 声ぞきこゆる                (昭和7年)
 自らの統治を思い夜も眠れぬという天皇としての御苦心があふれる御製です

 そして昭和2年金融恐慌、山東出兵、昭和6年満州事変と天皇の御心とは正反対に日本は戦争への道をひた走っていくのです。
   ふる雪に こころきよめて 安らけき
      世をこそいのれ 神のひろまへ               (昭和6年)

   あめつちの 神にぞいのる 朝なぎの
      海のごとくに 波たたぬ世を                (昭和8年)

   静かなる 神のみそのの 朝ぼらけ
      世のありさまも かかれとぞ思う              (昭和13年)

   西ひがし むつみかはして 榮ゆかむ
      世をこそ祈れ としのはじめに               (昭和15年)
 天皇の世界平和への祈りとは裏腹に昭和16年真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まります。

昭和17年ミッドウェー海戦で戦況は一変し、昭和20年3月東京大空襲。8月広島、長崎への原爆投下そして昭和20年8月15日の終戦へと多くの国民のみならず、他国の民の命を奪い去っていく戦争への念いは、いかばかりであったかと心が痛んでなりません。

   峰つづき おほふむら雲 ふく風の
     はやくはらへと ただいのるなり               (昭和17年)   

   つはものは 舟にとりでに をろがまむ
     大海の原に 日はのぼるなり                 (昭和19年)
   
風さむき 霜夜の月に 世をいのる
     ひろまへきよく 梅かをるなり                (昭和20年) 

 峰を覆う黒い雲を風が早く吹き払って欲しい、船上で苦労している兵士たちへの氣づかい、寒き夜に一心に平安を祈る天皇の御姿。
天皇がなしうる最高の祭祗、神への祈りが連日続けられています。
そして終戦のご聖断が下されたのです。
   身はいかに なるともいくさ とどめけり
      ただたふれゆく 民をおもひて   
昭和20年8月15日の御製だそうです。
 8月15日に先立つ8月10日御前会議が開かれました。
防空壕の中、戦争継続を主張する者と終結を主張する者との大論議の末、膠着状態の中で鈴木首相が昭和天皇にご聖断を仰がれました。
 陛下は少し体を乗り出すようにして
「それならば、私の意見を述べよう。私の意見は、外務大臣の意見に同意である」
物音一つ聞こえない防空壕の中である。陛下の声は参列者の胸に突き刺さった。次の瞬間、すすり泣きの声が漏れてきた。やがてすすり泣きは号泣に変わった。暫くして腹の底から絞り出すようなお声で
「念の為に言っておく」と申され
『大東亜戦争が始まってから、陸海軍のしてきたことをみると、どうも予定と結果が大変違う場合が多い。いま、陸軍、海軍では先ほどの大臣、総長が申したように本土決戦の準備をしており、勝つ自信があると申しているが、私はその点について心配している。先日、参謀総長から九十九里浜の防御について話を聞いたが、実は、その後、侍従武官長が現地を見てきての話では、総長の話と大変違っていて、防備は殆どできていないようである。
 このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか。私は非常に心配である。
或いは、日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではないかと思う。私の任務は先祖から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。今日となっては、ひとりでも多くの国民に生き残ってもらい、其の人たちに将来再び立ち上がってもらうほかに日本を子孫に伝える方法はないと思う。このまま戦争を続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。もちろん忠勇なる軍隊の解除や戦争責任の処罰などを思うと実に忍びがたいものがある。私は、明治天皇の三国干渉のときのお心持ちも考え、私のことはどうなってもかまわない。耐え難いこと、忍び難いことではあるが、この戦争をやめる決心をした』
 陛下のお言葉によってポツダム宣言受諾が決まった。時に10日午前2時20分であった。
 10日の午前7時、スイス駐在の加瀬公使からスイスを通じ米、中へ、スエーデン駐在の岡本公使からスエーデンを通じて英、ソ両国に日本政府の意思が伝えられました。


                         
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posted by 前原幸夫 at 16:03| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする