2019年04月02日

4月の言葉!「令和に想う」


昨年9月、青森へ旅した時、偶然にも三内丸山(さんないまるやま)
遺跡へ立ち寄り、縄文時代の生活に触れることができました。

その生活は、私が昔、歴史の教科書で習ったものとは大きく違い、その生活レベルの高さや豊かさに驚ろかされたものでした。 

縄文時代とは今から約1万5千年前から2500年前までの約1万年程の期間の時代です。

縄文の名付け親は、大森貝塚を発見した、アメリカ人 エドワード・モースが、貝塚から出土した土器に縄の文様が施されていたためでした。

私が習った縄文時代とは、ほら穴のようなところに住み、定住生活はせず、狩猟採集に明け暮れ、原始的な野蛮な時代であり、歴史上スポットはあびていませんでした。

そして、稲作を行い、高度な文明を持つ民族が朝鮮半島からやってきて(弥生人)、縄文人は日本から追われ、やがて農耕を中心とする文明が日本に花開き、卑弥呼や後の天皇家へと継承されてゆくというものでした。いわば、縄文人と弥生人を祖とする現代日本人は別物と考えられていました。

ところが、三内丸山遺跡にみるように、過去年代の測定技術の進歩により、縄文時代は定住し、村を形成し、狩猟採収だけでなく栗などの人工栽培や、食材を倉で貯蔵し、煮たきものを行い、食品の調理など、生活面でも文化面でも高度なものを持ち、縄文人がやがてゆっくりと弥生人へとなり(もちろん朝鮮半島からの渡来人と融合し)現代日本へ脈々とつながっているというものです。 

現在の日本人のルーツは、今から1万5千年程前の縄文人だというのです。事実、三内丸山遺跡での生活は、竪穴式の住居がいくつも点在し、高床式の食料を収納する大きな倉庫があり、集会場のような建物もあり、村を形成しています。食べ物も研磨された石器でイノシシやシカを狩り、魚を釣り、主食の栗は人工的に栽培し、煮炊き、味付けし、色々な地域(北海道や北陸など)と交易していたことを数々の出土物が証明しています。縄文人は安定した生活を送っていた文化人であるという認識です。
しかし、その縄文人はなぜ稲作をしなかったのでしょうか。
様々な地域と交流があり、当然、朝鮮半島とも交流があったはず。稲作も知っており、栗の栽培は行われているように稲作もしようと思えば出来たのではないでしょうか。

一つの仮説ですが、縄文人は農耕、稲作を拒んだのではないか。わざと取り入れなかったのでないかというものです。なぜなら、農耕は戦争を発生させることを縄文人は知っていたからだというものです。

 稲作は富が蓄えられ貧富の拡大が起こり、やがて支配者が現れ(被支配者が現れる)てゆきます。水田耕作は栗の木栽培とは比べ物にならないほど、大規模化され、人々の共同作業を必要とします。それを総括するトップ集団も現れます。余剰の富や人口が新たな農地と水利を求め争いを起こします。

日本でも組織的な戦争は弥生時代から始まったと言われています。三内丸山遺跡では、多くの出土物の中に武器のようなものはありませんでしたが、弥生以降は数多く出土しているそうです。

穀物の高栄養が寿命をのばし、幼児の死亡率を下げ、穀物から離乳食も造れるため乳離れが早まり、多産も可能となり、人口は急増し社会問題化してゆくのです。

その人口増を解決する手法が戦争による田畑拡大(領土拡大)と言うのであります。縄文時代、すでに大陸では戦争が起き、朝鮮半島にも迫っていました。それ故、縄文の人々は稲作農耕を拒絶したのだというものです。
これが稲作という文明の道具を捨て戦争を拒絶した縄文人のありよう、ありかたなのです。 

もうすぐ、新しい御世が始まります。今までの30年、テクノロジーは人類に利便性や豊かさをもたらしました。そして、これからの30年、このテクノロジーの進歩はさらに加速してゆくことでしょう。その時代は私たちに人間としてのあり方や社会システムに対する根本的な問い直しを求める30年間になるでしょう。(縄文人が自らの幸せとは何かを問い続けたように)

今、その幕は切って落とされようとしています。

代表社員 前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 10:46| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする