2020年09月01日

9月の言葉!「惜別」

昭和61年2月真冬、日はとっくに暮れた寒い夕方、私は彼に最初に出会いました。岡山市北区の新幹線ガード下の喫茶店でした。
私が税理士として独立開業したのはその前の年、昭和60年6月1日です。父親の会社ともう一社、二社がお客様でのスタートでした。事務所は借りたものの社員はもちろんゼロでした。おかげ様でお客様も順調に増え、その年の12月に女性のパートさんを採用し、翌年には男性社員を採用しました。それが平田修君です。彼は高校卒業後、岡山市民信用金庫北方支店(現おかやま信用金庫)に勤務していました。支店に近い方が良いというので、新幹線のガード下の喫茶店で会うことにしました。
 私をじっと見つめる彼の眼光に、少し押され氣味になる自分を感じていました。それは新しい職場にかける彼の期待感と、二十歳の青年をこれから一生面倒を見なければいけないという私の責任感の混ざったものだったように思います。彼はすぐさま信用金庫を辞め、当社へ入社してくれました。

昭和61年4月には、私の妻も入り男性2名女性2名という体制で新たなスタートです。
 私は若さにまかせ、どんどんとお客様を増やして来ます。その当時、平日は22時23時、土日もなく、私も平田君も仕事をしていました。お客様が増えるに従い、社員も一人二人と増えて来ました。

彼には通常の業務と社員の管理と二重の仕事が与えられました。自分がこなしている業務は若い社員に廻し、自分はどんどんと新しい難易度の高い業務に挑戦してくれました。その一つが上場でした。株式を店頭公開するという話が舞い込み、未知の世界に彼はチャレンジし、見事に公開を果たしてくれました。その後、その会社の監査役として東京出張も多くなりました。又、社員が1000人を超える法人、グループ税制を行なう法人、不動産を多額に持たれている方の税務、又医療法人と、その活躍は多岐に亘り、我が社の発展にあらん限りの力を振り絞ってくれました。

社員旅行や忘年会などの宴席では、酒も強くないのに盛り上げ役をかって出てくれました。乾杯が終わると真っ先にビールを両手に持ちお酌をして廻り、カラオケもあまりうまくない歌を最初に歌います。マイクを持つと離さない癖があり、彼の歌に数曲付き合うこともしばしばでした。




入社したての頃、驚かされたことがありました。
当時の我が社では儲け頭の法人のお客様を、突然解約してきたというのです。以前から氣難しい社長さんでしたが、株主総会では株主に良い顔をしたいので、利益がかなり上がっている決算を報告しておきながらいざ税務署へ申告するとなると、なんとかしろと平田君に高圧的に言ってきたそうです。

その当時、お客様は喉から手が出る程欲しかった私ですが、彼の「契約解除しました」というパワーに押され、頷くしかありませんでした。その正義感の強さは、剣道をしていた武士道に通ずるものがあるのかもしれません。私に対しても是々非々、私がぶれていたり、方向性が間違っていた時は、ズケズケと進言しそれを正しめる。まさに諫臣でもありました。

そんな平田修君も、2020年7月19日 力尽きたのか、天国へ旅立ってしまいました。55歳という若さで・・・
二十歳で出会い、以来35年。その存在は空氣のように、あって当たり前、居て当たり前という存在でした。
開業当初は私が自分で煎れていたコーヒーも、彼が入社してからは、彼が煎れてくれるようになりました。一番最初にドアのキーを開けるのも彼だったので、コーヒーも必然だったのでしょう。彼の煎れたコーヒーをすすって仕事をする、そんな日々が35年続いていました。もう彼のコーヒーは飲めなくなりました。そんなことの残念さよりも、もっともっと彼にやって欲しいことはいっぱいあった。私もあと3年で70歳。これからのこともゆっくり相談したかった。

考えれば無念、残念、悔念がこみ上げてきます。彼の死という現実を受け入れることができない毎日が続いています。

彼の抜けた穴は大きいですが、この穴を今、社員が一丸となって埋めてくれています。彼を弔うことも大切ですが、お客様にご迷惑をお掛けしないことも大切です。彼の死を乗り越え、社員が成長してゆく姿を見てもらうことこそ、残された我々の使命だと胸に刻んでいます。

 生前、皆様方からいただいたご厚情に感謝申し上げるとともに、
平田修君のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

代表社員 前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 00:00| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする