2018年11月01日

11月の言葉!「みちのく紀行」

「みちのく紀行」

 私の妻がさだまさしの大ファンということは以前何度かご紹介したと思います。さだまさしのコンサートを追いかけて日本全国に行くわけです。もちろん一人では行けないため(方向音痴)いつも私が同伴します。私は岡山の周辺会場よりも出来るだけ遠くに旅行を兼ねて計画します。
 今回も青森のコンサート会場を押さえ、十和田湖へという予定を立てま
した。その話を聞きつけ私の同級生、うどん名玄の平井さんご夫妻も連れ
だっての旅となりました。
2泊3日、初日はコンサートがありますので、コンサート会場近くのホ
テルに宿泊。コンサートが終り近くの寿司屋で一杯、みちのくの味を堪能し、次の日は十和田湖です。
レンタカーに乗り、ナビ頼りの旅ですが、平井さんご夫妻が同行した
いと言われた時、私に一つのアイデアが浮かびました。私も以前行なったのですが、平井ご夫妻に続婚式(・・・)をやらせようと。
 ご夫妻の仲睦まじさは相変わらずですが、彼らの指には以前の私たちのように結婚指輪がありません。
 うどんをこねるという関係からかもしれませんが、以前から私は氣になっていました。
 続婚式の話をするとすぐに乗り氣で結婚(続婚)指輪を購入し、今回の旅行となりました。本人たちの希望により、神前が良いということで、青森市内の由緒ある神社に伺ったのですが、あいにくその日は大祭の日であえなく断られ、それならと地図で探すと、十和田湖畔に十和田神社があることが分かり車を走らせました。

 外国人のお客様が多い中、十和田神社の参道で(その日平井夫人は足を怪我しており神殿までの長い階段を上ることが出来なかったもので)
行ないました。私たち夫婦が仲人役、指輪の交換、誓いの言葉をお互い交わしキスの代わりに握手を。その近くの土産物屋の食堂でお神酒で乾杯で終了です。今も二人の指には真新しい指輪が輝いています。

 2日目の宿はあの有名な酸ヶ湯(すかゆ)温泉!
何で有名かというと、冬には4mを超える積雪で冬場にテレビによく出てくる温泉宿です。もちろん、私の行った時は雪はありませんが。
「混浴ヒバ千人風呂」という開湯以来300年以上経つ湯治場です。
豪華さはありませんが、昔ながらの湯治の湯にひたり、混浴にドキドキしたりと、それはそれで楽しい一泊でした。
 最終日、青森空港発の飛行機は夕方ですので時間もたっぷりあり、どこへ行こうかと考えていた時、平井さんが道路標識を見つけ、そこへ行こうということになりました。私は「え〜っ」と思いましたが、他に当てもないため、言うことに従い行ってみました。
 
そこは、三内丸山遺跡(さんないまるやま)という縄文時代の大規模な集落の跡です。縄文時代前期〜中期、今から約5,500年前から、4,000年前です。
5,500年から1,500年間ここの集落は続いていたそうです。
縄文時代、これまでの私のイメージでは縄文時代、人々は洞穴に住み、貝や獣を捕り生活しているという暗いイメージを持っていましたが、ここ三内丸山は違いました。
 集落の広さは約40ヘクタール、竪穴式の住居、墓、高床式建物(倉庫のような)、それから地上12mにも達する堀立柱建物(祭祀用で使ったのではないかと言われています)、数多くの住居跡があり(なんと柱の間隔は全て4.2m長さの尺度があったことを伺わせます)、数多くの板状の土偶や交易をうかがわすここでは取れない翡翠や黒曜石なども出土し、展示されていました。
村人は約500人に達し、自家栽培した粟を主食に、クルミ・とち・えごま・瓢箪、牛蒡、豆そして海が近いこともあり魚を捕って食べていたということです。

 驚くべきは、1,500年間に亘り、平和で穏やかな生活がここで営まれていたという点です。
 多分、上下・貧富・争いなどなかったのではないかと想像できます。
 なぜならば、この遺跡からは人を殺傷するよう武器は出土されていないということ。食料を貯蔵する倉庫があり、皆が平等に食し、住居跡も大小さまざまありますが、特権階級が済むような住居跡はありません。

 その頃、今から5,000年前と言えば、メソポタミアやエジプトでは王が居て、奴隷が居て、富める者と貧しい者の階級がはっきりしていたことを思えば、なんと素晴らしい遺跡であることかと改めて驚き畏れ入ります。
そこに住んでいた人々は、定住もせず原始的な生活をしていたというイメージを遥かに覆す文化的で科学的で健康で平和で豊かな共同体生活を5,000年前から続けてきたのだということに驚かされ、もっと日本人のルーツに近づきたいと思った旅でした。


代表社員 前原 幸夫
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2018年10月01日

10月の言葉!「己を尊び人に及ぼす」


 自民党の総裁選も終り、安倍総理が3選を果しました。その是非はさておき、なぜ安倍総理は自民党の規約まで変えて3選をしたかったのでしょうか。
テレビに映る総理は時々薬のせいか顔が腫れぼったく見え、決して体調は万全とは思えません。なのになぜと思いますが、その答は多分憲法改正だと思います(もう1つあるとすれば東京オリンピックですが)。
 自分の総理総裁の時でなければ日本国憲法の改正はできないという強い信念の表れだと思います。

 日本国憲法の生い立ちについて見てみましょう。

 現行憲法は昭和21年11月3日に公布され、昭和22年5月3日に施行されています。時は真に戦後のどさくさの時。昭和20年8月15日に終戦を迎え、そしてアメリカの占領下に置かれます。昭和20年8月30日、GHQの最高司令官マッカーサーがパイプをくわえ、厚木基地に降り立ち、それから憲法の草案がアメリカ人らの手により始まります。そしてなんと昭和21年2月13日には、マッカーサー草案として憲法の草案が日本に提示されています。わずか半年にも満たない期間での草案づくりです。この時、この起草の責任者コートニー・ホイットニーは、現行憲法の戦争放棄についてこう言っています。

 「国権の発動たる戦争は廃止する。日本は紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。日本はその防衛と保護を今や動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ機能は将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない」という原則のもと現行の憲法の前文及び第9条が作られています。
 日本は自国を守ることさえも許されない敗戦国だったのです。自国の平和、生命の安全は自衛のための軍隊(戦力)ではなく、世界の国々の崇高な理想、換言すれば世界の国々のお情けで守るというのです。

 これが占領下、敗戦国日本の戦後のスタートです。
敗戦後、日本は日本人が治めておらず、GHQマッカーサーの支配下です。
書籍や手紙は検閲があり、発言の自由も奪われていました。そんな中での憲法なのです。今の憲法は。
だとしたら昭和27年4月28日日本はサンフランシスコ平和条約により独立しました。独立国家となった以上その時に憲法を変えておく必要があったのです。

 1972年、沖縄が日本に返還されるまで27年間沖縄は日本ではありませんでした。
 当時、戦後の日本と同じようにアメリカ人が統活していました。占領されていたのです。通貨はドル、沖縄に行くにもパスポートが必要でした(公用語も英語にしようとしたようですがこれは実現しなかったようです)。
なんと、甲子園大会に出場する沖縄の球児たちはパスポートを持って甲子園に向かったといいます。車は右側通行、車のスピードメーターもマイル、道路標識もアメリカ仕様です。
 しかし、日本に復帰してからは円になり車も左側通行、パスポートももちろん必要ありません。
 アメリカの支配下から独立し、独立国となればアメリカ仕様ではなく日本独自の制度が必要になります。日本人が日本を統治するのですから当り前です。
占領政策の一環として作られた現行憲法を独立した後も後生大事に守ってゆかねばならないという意味が分かりません。
しかも問題のない憲法ならいいですが、戦後70年も過ぎ、問題だらけの憲法は変わっていくのが当り前です。
 もう一度言います。昭和27年4月28日日本が独立した時もう一度作り直すべきだったのです。

今、いじめや子の虐待、無差別の殺人が毎日毎日報道されています。原因は色々あるでしょうが最大の原因は自分の尊さ、すばらしさ、命の有難さの欠如ではないでしょうか。自分のことが心から好きで愛せる人でないと人を愛してはゆけないのではないでしょうか。自分の命を大切にする人こそ、人の命も大切にできます(逆に自分を粗末にする人は他人を粗末にしてしまいます)。
このことは国でも同じです。自国を愛せない人が他国を愛すことはできません。
まず、自国の文化を学び、畏敬、尊敬してこそ周りの国々にも同じ歴史、文化がそれぞれにあるのだと氣づき畏敬、尊敬するのではないでしょうか。
その国家の根本をなす憲法に国民を守るという条項が欠けているとしたら、他国のお情けで守ってもらうとしたら、そんな国を畏敬、尊敬できますか。

まず、自分の国は自分で守る。いや命をかけても守るという氣概を養い、それと同時に他国に思いを馳せ、共尊共栄の世界を作ってゆけるものと信じます。
自分を愛する者が他人を愛せ、自分の家族を愛せるものが、他人の家族を愛せ、自分の町を愛せる者が他の町を愛すことができ、自国を愛す者が他国を愛し、地球を愛する者が他の星を愛し、宇宙を愛せる者になると強く信じ、まず憲法の見直しからスタートする必要性を強く感じ、これからの論争を注視したいと思います。


代表社員 前原幸夫
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2018年09月01日

9月の言葉!「親と子に捧げる 300号記念!!」


 なんと なんと 
今月お届けする「本氣」は通算300号です。
毎月1回発行、そして新年は「本氣」はお送りしていませんので、年11回。平成3年7月から少し(大分)遅れたりはしますが、それでも毎月欠かさず27年300号です!!

 平成3年と言えば、私は38才。開業して6年が過ぎ、社員も10名程、お客様も150社を超えたころです。今までは、私がほとんどお客様の所へ顔を出していたのが、なかなか叶わぬようになり、その疎遠さを出来るだけ縮めたいという念いからの「本氣」の発行でした。本当に長いお付き合いをいただき感謝です。身体(頭)の続く限り、命の続く限り出し続けますので、よろしくお付き合いください。

 そう言いながら記念すべき今月号、手を抜くわけではないのですが、過去のものを2編、少し長くなりますが選んで載せてみます。それは大塚家具を取り上げたものです。今期(2018年12月期)も8月7日 52億円の赤字見通しと下方修正を発表。これで3期連続の赤字となり、身売りさえささやかれています。ことの発端は今から3年前の父から娘への社長交代から始まっています。最初に私が取り上げたのは2015年3月号(No.261)です。

「大塚騒動」

 最近、とみに企業の事業承継についてのご相談が多くなっています。
 1つは社長の年令、1つは今年から相続税の基礎控除が引下げられたことに対する増税感からだと思います。
 企業30年説というのがありますが、よく言ったもので、30代で創業し、それなりに成長させてこられた社長さんも60代後半を迎え、そろそろリタイアを考えられる方が多いということでしょう。
 しかし、ここで数々の問題があります。
 大きなものは、譲る側の年令、健康と譲られる側の経営者の力量です。
今の70才はお若い。
ですから、さっとリタイアというわけには行きません。それが60代ならばもっと若く、子供さんに社長の座を譲った後も実質的に社長。何の為の社長交代か分かりません。
 しかし、譲る側の社長にも言い分があります。
「後継者の我が子を見ていると、まだまだ社長の器ではない。老骨にムチ打って、私がガンバラねば!」との思いが強くあります。
 一方、後継者の側は、社長になったものの「以前と役割はほとんど変わらず、先代の社長、現会長は自分のやることなすこと、こと細かくチェックし修正をかける。何の交代か分からない。」
「これほど時代が変わっているのに、先代の行っていた経営手法でやりたがり、新しい経営スタイルをなかなか認めてくれない」と、不平不満を持つ後継者も多いのが現実です。

 まさに今の大塚家具の騒動そのものです。
 先代社長が一代で作り上げてきたものを、一橋大学、都市銀行出身の才女が後を継ぐという傍目には何ともうらやましく思われるものが、当人同士、怨念とも言えるような確執が繰り広げられています。
娘二人で身内の後継者がいない私なんぞ、あんな優秀な娘が後を継いでくれたらいいなぁと思いますし、又、創業者の私にとってはないないづくしのスタートでしたから、あれだけの巨大企業を作り上げてくれた先代がいたら、さぞかし経営は楽だろうにと、父と娘、共方うらやましい限りです。
 ところが、現実は逆で先代は後継者が行うことが不安で不安でたまらず、後継者は先代を古くさい目の上のタンコブと思うようです。
 
大塚家具にしても、現会長の親は、タンス職人だったと言います。多分、その父の念いはタンス職人の後を継いで欲しかったに違いありません。
 しかし、大塚勝久会長は父の作るタンスの販売をし、その間学んだ家具販売のノウハウをもって、1969年独立したのです。親からの独立です。その時多分勝久氏の父親も不安いっぱいだったに違いありません。
 それから快進撃を続け、2003年には売上730億円を上げましたが、2013年には562億円と経営不振に陥りました。
 この難局をいかに乗り切るか、従来の成功体験を元にしたやり方か、時代の変化に見合う経営の見直しをするのか、ここが親子の対立だと思います。どの企業にもありそうな話です。

 それではお前はどうするのかと聞かれたら、私ならこうします。
 勝久氏が今の手法で十分この難局は乗り切れると判断するなら、より大塚家具の強味、特徴に磨きをかけることです。
 ニトリや、IKEAにはないもの、大塚家具でしか得られないものに。
それは徹底した仕入に対する目利きであり、高いもの、いいものをより安くという高級化であり、会員制を利用した限定的な顧客の絞り込み、会員としてのステイタスの向上、顧客密着度を上げることによる家具というものではなく、ライフスタイルそのものの提案力の強化です。
 しかし、それだけでは今の変化には対応できないでしょう。
従来の販売手法に磨きをかける一方、住宅建築戸数の減少(少子化、高齢化)、まとめ買いから単品購入、氣にならない接客、自由な買い物ができる売り場づくり、高いというイメージの払拭等、久美子社長の言うこともうなづけます。  
だとしたら、第二創業を久美子社長は、大塚家具というブランドではなく、自らのブランドとして立ち上げ、店舗展開をしてゆく。手法の違う二つの企業がお互いライバルとなり、補完し合い、事業を展開してゆくことが、いいのではないのでしょうか。
二者択一ではなくいいものが残る、そして、お客様に支持されないものは自然になくなるという当たり前の原理原則どおりやってみることです。
 泥試合こそ最も避けなければならないものです。

 以前、ある後継者の社長から、こんな話を聞いたことがあります。
 ある日、先代の社長お父様から、お前が社長をやれと、まだ30代の前半の時言われ、それと同時に会社の実印と通帳、そして父名義の○千万円残高のある定期預金とその印鑑を渡され、その日からお父様は会社に出て来なくなってしまったそうです。
 急な事で驚いたと同時に、父の自分に対する信頼を痛いほど感じ、もちろん父名義の預金には一切手を付けることなく、30年以上一所懸命やってきたということです。

 又、創業50周年、60周年というお祝いに、ご招待されることもよくあります。
その場で目にすることは先代や先々代に対する恩の披歴、感謝の式です。現社長が今こうやって隆々とやってられるのも全て先代や先々代のご苦労、ご苦心の賜物との念いが式全体のベースになっています。
 創業者もいくら立派に大きく企業を成長させたとしても、永遠に社長でいるわけにはゆ
きません。必ず、承継は必要になります。
 その時、俺なんか苦労の連続だったのに、こんな立派な会社の経営をやれるのだから、お前は幸せ者だと、後継者に恩を売る(請求書の発行)のでななく、何があってもお前を信じ、バックアップする。
そして自分が創った会社、自分が継いだ会社を継いでいただくことだけで有り難い。そんな思い(領収書の発行)も必要なのではないでしょうか。

 それと同時に継ぐ立場の方も、親や先祖に対し、こんな立派な会社を継がせていただくことに感謝し、必ずこれを次の代に継なげてゆくことを先代の前で誓うことも必要なのではないでしょうか。
 泥のかけ合いでなく、感謝のかけ合い、親は子を信頼信愛し、子は親を尊敬崇拝することにより、スムーズな事業承継が行なわれるのではないかと思います。
 社長は有限されど、企業は無限です。
真の事業承継とは父が子に継がせるだけでなく、その子が孫に継ぐことで完結されると私は教えていただきました。
 真の事業承継を私も行なう決心覚悟です。




次にもう1編
2017年6月号(No.286)です。

「有明反省会」

 日経新聞で「有明反省会」という見出しが目に留まりました。大塚家具の記事でした。
 大塚家具が東京都の有明に本社があるため、「有吉反省会」をもじって「有明反省会」という見出しになったようです。
 あの大塚家具です。もう2年前になりますが、先代社長が一代で築いたビジネスモデルが時代に合っていないと後継者である娘が父を社長の座から引きずり降ろし、自らが社長となったあの大塚騒動、お家騒動のあった会社です。

 私も2年前この「本氣(まじ)」で取り上げました。2015年(平成26年)3月号です。早いものであれから2年経ちました。
 今、読み返してみますと興味深い文章が並んでいます。
「泥試合こそ避けるべき二者択一でなく、いいものが残り悪いものは消える。この原理原則に従い、父子のビジネスモデルの併用を」と言っています。
 しかし、現実は父親を排除し娘の思うビジネスモデルに転換した2年でした。結果は大苦戦ということです。
 ピーク時の売上730億円あった売上は2016年(平成28年)12月決算では463億円と大幅に落ちています。しかも45億円の赤字となりました。
 原因は、娘が先代のビジネスモデルを否定し換えた結果、お客様や社員がついてこれていないということです。当り前の話です。
 長年、先代が培ってきた販売スタイルにお客様も社員も慣れています。一氣には変わりません。
 お客様も困惑しています。今まで大塚家具は高級路線でした。しかし、お客様に身近なイメージを作ろうと中価格帯の品揃えを強化するという方向転換をお客様は安売りだと思います。
 安売り店なら、ニトリと比べます。ニトリと比べれば、はるかに高い価格ですから、お客様は離れてゆきます。
 接客のスタイルも抜本的に変えました。今までは会員登録をし販売員が付き添い、まさに付っきりで店内を案内し、説明をするというスタイルでしたが、これではお客様が自由に店内を見て廻ることができないとの理由で、販売員が必要と思われるお客様にのみ、お客様の様子を察し、お声掛けをする方式に変わりました。
 週末の新宿のショールームは家族連れで賑わっているそうですが、「以前は付いて廻られることが煩わしかった」という声がある一方で、来店客の多くは一通り店内を見て廻るとそのまま出口に向かわれるそうです。お客様との距離、接客のタイミング、販売員の質と量が不足しているとのことでした。最適な販売員を配置し、接客のテクニックを上げてゆく必要があるということです。
 
2代目の挑戦は始まったばかりで軽々しく結論をいう事は出来ませんが、新しいビジネスモデル、販売スタイル、店舗イメージを構築、浸透させるにはまだまだ時間がかかりそうです。先代のやり方が古く、2代目の新しい眼、新手法が必要なのは世の習い、世の常です。
 しかし、その時大切なのは、先代のやり方、ビジネスモデルを否定することではありません。先代と別のものを創ることでもありません。
 先代の理念、戦略、ビジネスモデル、手法等々を包含する一廻り大きいビジョン、理念、戦略、ビジネスモデルに組み替えるということです。
 先代の経営を全肯定し、心からの畏敬の念、感謝の念を胸に刻み、それをベースに後継者がよしとするあり方、やり方に変えてゆくということです。
 全く別々のものを創り出すのではなく(新生ではなく)創生です。先代のものを全てのみ込み一廻り大きく組み替えることです。
 経営創生とでも言うべきものです。

 その時一つだけ重要なことがあります。後継者は先代より一廻り大きな理念、戦略、ビジネスモデルを持つわけですから、当然、先代よりも一廻りも二廻りも大きな人間力が必要だということです。これがなければ、うまく行くはずがありません。
 大塚家具の大苦戦も2代目久美子さんの才はあるが、徳(人間力)がまだまだ先代に追いついていないということの表われだと思います。才だけでは、お客様や社員はついて来ません。
 徳あるところに人は集まります。 後継者の健斗を心よりお祈り申し上げます。


                                                     代表社員 前原 幸夫
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2018年08月01日

8月の言葉!「豪雨災害」


 今回の豪雨災害により、亡くなられた方又、災害に遭われた方へ心よりお見舞いを申し上げます。
 我が家も後、数センチで泥水が押し寄せるところでしたが、辛うじて難を逃れることができました。我が家を建てた父親が「地盛りはしっかりとせんといけん!」と少し高めに基礎をしておいてくれたおかげ様だと亡き父の英知に今更ながら感謝しています。(ちなみに父はもう一つ、押入れは多ければ多いほど良いがモットーで我が家には物入れ、押入れが結構あります。しかし、どこも物で一杯。やはりあれば便利なのだと感心します)

 7月6日(金)の深夜から7日(土)の明け方までほとんど眠らず水の番でした。夜、川の増水を知らせるサイレンがけたたましく鳴り、また警報メールがひっきりなしに携帯電話から鳴るという状態。どんな状況かと大雨の中、前を流れる旭川を見に行ったり、甥の運転する車で町内を廻ったり、その途中避難されている方を見送ったり、緊迫の一晩でした。
 旭川の堤防を越えて川の水が町内に流れこむとか、決壊などということはないだろうと思っていました。しかし、その晩の旭川は今まで見たことのない水位であと1〜2m増水すれば堤防を越えてくるような恐ろしい光景でした。
 町内の道路は水に埋もれ、崩れたことのない裏山も一部崩れ、今まで経験したことのない災害の恐ろしさがそこにありました。
 おかげ様で町内も大した被害もなく、しばらくして水も引いてくれました。
 しかし、我が町内で言えば、今まで大丈夫だと思っていた家屋への浸水、山の崩落、お年寄りの避難手順、寝たきり、一人住まいの方々への情報伝達等々、多くの課題が浮き上がった今回の災害でした。
 
災害の対応には自ら守る「自助」、近隣で助け合う「共助」、国や県、市が手を貸す「公助」があるとされています。
 基本は日頃から防災グッズや非常食の準備をする、避難場所や防災マップでリスク確認するといった自分の命、安全は自分で守るという自助です。
 しかし、自分一人、自分の家族だけでやれることには限界があります。
実際、今回の水害でも我が町内の避難場所は、近くの公会堂や小学校でなく4kmも離れた岡北中学校です。
老人の方でなくとも、大雨の中、傘を差して歩いてゆくことは不可能です。
近隣の方が自発的に車を出し避難されていました。
 そこには濃密なコミュニティーの形成が必要です。人は人、自分は自分、我が家は我が家、人の家は人の家と別々の存在と考えるのではなく自分が困っていることは人も困っているだろう。我が家が大変な時は隣の家も大変だろうと思いやる心、寄り添う心が必要です。
 そして町内全体の家族構成とか連絡網を日頃から完備・点検し、いざという時、誰が誰のお世話をするか、どこからどこへ避難するか等々、しっかり詰めた話を町内全体でする必要があることを痛感しました。
共助です。助けられるのではなく助ける人になる。
互助、お互いに助け合う。そんな濃密な関係が必要となります。
その為にも日頃のお付き合いが重要であり、自分が災害の時何が出来るかを探りながら、活動しなければならないと強く思いました。
国や県、市の公助は初動時にはほとんど役に立ちません。

数日経って、高梁市に用事があり、国道180号線を北上しました。
真備町の惨状は良くテレビ等で見ていましたが、国道180号線の豪渓から高梁に行くその沿線もかなりの災害でした。
 国道180号の左側に高梁川は流れています。国道の右側に伯備線が通っています。(勿論不通ですが)その伯備線を守るようにフェンスが設けられていますが、そのフェンスがゴミだらけ、高梁川の水がそのフェンスを越え、伯備線の線路をまたぎその右奥にある民家を直撃していました。
 あの高梁川がと思うと同時に、我が家の前を流れる旭川も決して安全ではなかったのだと改めて氣付かされました。
 今までの経験、今までの常識、今までの安全神話が通用しない昨今の災害。
いつどこで起こっても不思議がないのが自然の力だとしたら、常在戦場。
晴れの国岡山とタカをくくらず、謙虚に備えたいと思っています。

代表社員 前原 幸夫
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2018年07月04日

7月の言葉!「温故知新」

 先月(6月)、高校時代の同窓会と大学時代のサークルの同期会がありました。懐かしくもあり、又段々と訃報などが届く歳となり、是非今のうちに会っておこうと出かけてみました。
 高校時代の同窓会は岡山での開催でした。約60名位の参加です。何せ関西高校昭和46年普通科卒の猛者(もさ)ばかりですから女っ氣なし。恩師3名を含め全員男性というイカつい会になりました。
 その中でも高校時代ワルで名を馳せたヤツほど今は立派になっているという感じを受けました。
 私はと言えば、朝日高校に入れず無念の関西高校入学でしたので大学受験失敗は許されない。しかも高校2年から税理士に照準を定めていましたので、とにかくガリ勉でした。
 修学旅行、文化祭、運動会などの学校の行事には目もくれず、とにかく勉強の毎日でした。その頃テレビで朝6時から7時まで大学受験講座を観てから、その後学校へ。1時限目が始まるまで図書館。授業も私立大学希望でしたから、受験に関係ない学科はボイコット。終業時から帰宅まで又図書館。帰宅し少し睡眠をとり食事、風呂の後は11時からラジオの受験講座を12時まで聞いて就寝という毎日でした。そんな訳であまり高校時代の思い出はありませんが、それでも久しぶり(中には50年ぶり)に会う同級生との会話は楽しくはずみました。

 次の週は東京で大学時代のサークルの同期会でした。私の大学時代は学園紛争の真っただ中、学校はいつもロックアウト(閉鎖)され、校内にも入れません。大学の授業がないわけですから、学びの場はサークルです。
 経営会計研究会(経会研)というサークルに1年生から入会し、簿記や会計学、経営学や経済学等を学びました。学びの場は、学校が閉まっているのですから、喫茶店でコーヒーを一杯頼み3〜4時間居座ったり、北の丸公園などでの青空教室であったりとそれはそれで楽しい思い出です。
 同期は14名ですが、既に2人が亡くなり、1人は難病で欠席、1人は行方知れず、1人は公務(日税連の常務理事)欠席と9名の参加でした。9名の内、1人も脳梗塞で半身が動かずリハビリ中でしたが、それを押して金沢から上京してくれました。
 そんな会ですから、14名中公認会計士が4名、税理士が4名、司法書士1名という構成。日本各地でそれぞれ顔(がん)晴(ば)っている同業の仲間という感じです。
 
 高校の同窓会でクイズ形式の歴史の問題が配られました。教科書クイズと題された問題。(出典は「こんなに変わった!小中高教科書の新常識」)
 私達が学んだものとこんなに違うのかと驚くばかりでした。
 例えば、
◆鎌倉幕府の成立は西暦何年?
イイクニ造ろう鎌倉幕府ですから、当然1192年と覚えていました。なんと今は1185年。1192年は頼朝が将軍に任じられた年であり、実質的には全国に守護地頭を置いた1185年(イイハコですって)が鎌倉幕府の始まりの年とのこと。

◆西暦645年は何の年?
大化の改新ではなく乙巳(いっし)の変だそうで、大化の改新は646年らしいです。

◆関ヶ原の戦いの東軍の大将は徳川家康、西軍の大将は?
当然、石田三成と答えたくなりますが、実は毛利輝元。副大将は宇喜多秀家の大老。石田三成は当時奉行職でもなかったとのこと。

訳が分からなくなりそうです。
何はともあれ、青春時代にしばしタイムスリップし「今度会うまで死ぬな」を合言葉に別れました。

代表社員 前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 15:39| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月01日

6月の言葉!「イノベーション」

先日おもしろい例え話に出会いました。

 『訓練艦隊所属の戦艦二隻が、悪天候の中、数日前から演習航海を続けていた。私は先頭の戦艦に乗っており、陽が沈んでから当番でブリッジに入った。あたりに霧が発生して視界が悪かったので、艦長もブリッジに残り状況を見守っていた。
暗くなってから間もなく、ブリッジのウイングに立っていた見張りが報告に来た。
「右舷船首の進路に光が見えます」
「停止しているのか、後方に動いているのか」と艦長は聞いた。
「停止しています」と見張りは答えました。つまり、その船はこちらの進路上にあり、衝突の危険があるわけです。
艦長は信号手に「衝突の危険あり、進路を20度変更せよと、当該の船に信号を出せ」と命じた。
返ってきた信号はこうです。「そちらが20度進路変更せよ」
艦長は再度、信号手に指示した。「私は艦長だ。そちらが20度進路を変更せよと信号を送れ」
すると「こちらは二等水兵です。そちらが進路を変更しなければなりません」という返事が返ってきた。
艦長はついに怒り、吐き出すように言った。「信号を送れ。こっちは戦艦だ。20度進路を変えろ」
返ってきた光の点滅は、「こちらは灯台である」だった。
我々は進路を変えた。』

 私たちの人生は霧の中を前進しているこの船のようなものではないでしょうか。そして、船長が自分自身です。濃い霧の中に灯りが見える灯台の明かりと知らず、自分の進路は頑として変えようとはしません。怒りを持ってその灯りを発する物体(船)の進路を変えさせようとしているのです。
 その灯台の灯は夫であったり、妻であったり、子だったり、時には社員、部下であるのです。もっと言うと時代、経済の変化かもしれません。
 しかし、それが灯台だと知ると、慌てて進路を変えてゆく。幸い間に合ったから良かったものの、冷や汗ものです。
船は進路を変えなければ灯台と衝突をしていました。人生にとって進路を変えるとは何でしょうか。それは今まで身に着けてきた価値観であり、考え方です。私たちは自分が身に着けてきた価値観のメガネで全てのものを見ます。だから、そのメガネを変えなくては、正しいものの見方、考え方は出来ません。
 多分、この革新は無限にあるのでしょう。しかし、2つ3つ例を上げれば、脳力開発11カ条もその1つです。

第1条   自分で主体的にやる姿勢をつくろう。
      人頼りの姿勢をやめよう。
第2条   いつも進歩発展をめざす姿勢をつくろう。
      現状に甘んずる姿勢をやめよう。
第3条   他人の利益もはかる姿勢をつくろう。
      自分だけよしの姿勢をやめよう。
第4条   中心点を明らかにし、中心・骨組で考える習慣をつくろう。
      中心点が不明確で枝葉末節にとらわれる習慣をやめよう。
第5条   両面で考え、どちらが主流かも考える習慣をつくろう。
      片面で考え、非主流にとらわれる考えの習慣をやめよう。
第6条   立場・観点を整理し、多角度から考える習慣をつくろう。
      立場を無視し、一方的角度からしか考えない習慣をやめよう。
第7条   確定的要素から出発して考える習慣をつくろう。
      不確定な要素にふりまわされる習慣をやめよう。
第8条   手と口と足をフルに使った、行動のつながりで考える習慣をつく
      ろう。
      概念のつながりだけで抽象的に考える習慣をやめよう。
第9条   知識はすぐに使う習慣をつくろう。
      ペーパー知識のままで孤立させておく習慣をやめよう。
第10条  できるだけたくさんの物事に首を突っ込む習慣をつくろう。
      なるべく余計なことに関心を持つまいとする習慣をやめよう。
第11条  できるだけたくさんの人に会う習慣をつくろう。
    少数の人とつき合うだけで、交際範囲を広げまいとする習慣をやめよう。


 世の中の大革新、大転換についてゆくためには、テクノロジー、テクニックの大革新、イノベーションも必要ですが、それと同時に価値観、物の見方考え方の大革新も必要となってきます。
 そのスタートは自分の価値観は低いという認識です。いくつになっても、まだまだ成長発展する(出来る)余地は残っているという信念です。挑戦しようとする意欲です。

「なにを言うか、私の今身に着けている価値観、物の見方は、私が何十年かけて磨いてきたすばらしい価値観なんだ。それを否定するのか」とお怒りの声があるかもしれません。しかし敢えてお叱りの言葉を甘んじて受ける覚悟で言えば、私たちが今身に着けている価値観は全て借物であり、人からの借用物だということです。もっと言えば、その借り物を自分の都合のいいところだけ切り取り、継ぎ合わせて真にパッチワークのような価値観が形成されているのです。

 よく考えてみて下さい。自分の名前でさえ自分では知らずに、人から教えてもらったものです。生まれた時につけていただいた名前。しかし、生を受けしばらくして、周りの人が自分のことを、私なら「幸ちゃん、幸ちゃん」と呼んでくれる。あぁ、私は幸ちゃんていう名前なんだと知り、「ぼく」と言う単語を知る前に、「幸ちゃんは」と自分のことを言ってしまう。自分の名前でさえ人から教えてもらうのです。
 親・先生・書物・テレビ・友人・周りの人々・・・いろんな人に教えてもらった(借りている)知識で全て構成されています。
だったら、その価値観は最善最高のものと思わず、まずその借物を新しくす
ることから始めなければなりません。

 死ぬまで革新、イノベーション(あの世に行っても大革新、大イノベーション)です。


                                                      代表社員 前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 10:25| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月01日

5月の言葉!「今、ここ・・・」

「今、ここ・・・」

 久しぶりに、乗り物の中で泣きました。号泣です。
 先日、東京経由で小樽に行く用があり、そのつれづれにと持参した本の一冊「たとえ明日、世界が滅びても今日、僕はリンゴの木を植える」という題名の本が号泣の理由です。
 以前もう15年位になりますか、新幹線の中で「上杉鷹山」の本を読んだ時以来の涙の移動でした。

 本の中味は現実にはありそうもないストーリーでしたが、それでも現代の世相、親子関係の疎遠さ、人間関係の希薄さが描かれており、また二転三転そしてどんでん返し、物語に引き込まれてゆく感じでした。
 現実的ではない展開ではあるものの様々な苦悩、逆境を抱え生きている登場人物は、あたかも現実を生きている私を含め、実在する人々の模写であるような氣がしました。
 過ぎ去ってしまったもう取り返すことのできない、もうやり直すことのできない様々な出来事に悔いることなく、未来のこれから起こってくるであろう、いや起こってくるか何か分からないことに怯え、不安になるのではなく、「今」というこの時に「ここ」というこの場所に全生命、全精力を傾けて生きて行こうという教えなのかもしれません。
 
「たとえ明日世界が滅びても今日、僕はリンゴの木を植える」という言葉はドイツで宗教改革を行なったルターの言葉らしいのですが、日本にも「この秋は雨か嵐かしらねども今日のつとめに田草取るなり」という二宮尊徳の有名な歌があります。「人事を尽くして天命を待つ」とでも言う心境なのでしょう。
 結果は考えず、今やるべきことを「今、ここ」でやるということです。
「今」しか人間の生きている空間はありません。自分の生命は昨日でも明日でも今日、今日しか生はありません。
 しかも「今、ここ」がベスト、最良、最善の時であり場なのだということです。今という一瞬一瞬が一番いい時、チャンスの時であり、今立っている場所、ここが一番いい場所、チャンスの場だと捉えるということです。

 自分の道にチャンスの道とピンチの道が2本あり、そのどちらかを選んでゆくのではありません。自分の前に道はありません。ただあるのは今、自分の立っている場所がチャンスなのかピンチなのか、という念いです。
 不渡手形をもらい、もうダメだと思えば自己破産の道しかありません。
 しかし、値切るばかりする、クレームばかりで手間のかかるお客様から手が離れ、新しいお客様へ事業展開することができると捉えれば、それは不渡手形をもらったことがチャンスとなり打つ手は無限となります。

 「今、ここ」が一番いい時、いい場であり、最善のチャンスが訪れている時、場であるならば、その延長線上にある1時間後はもっといい時であり、いい場所に自分は居ることになります。明日はもっといい時もっといい場、一年後はもっといい時もっといい場所・・・となると人生で一番いい時、いい場は死ぬ直前ということになります。
 
 もっと言えば、死後あの世があるとすれば行っての楽しみですが、そこが一番いい時、いい場だということにもなります。
 明日世界が滅びようとも全精力を傾けてリンゴを植えましょう。
今年の秋、台風や水害が来て稲が全滅するかもしれませんが、今田の草を取り、田植えの準備をしましょう。
 それが自分の生命、天命を花開かせる最善の道だから、それが幸せな人生を生きる最善の方策だからです。
 なぜなら、今ここがベストの時、ベストな場に我々は生きているからです。




                          代表社員 前原 幸夫
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2018年04月06日

4月の言葉!「前期高齢者」

「前期高齢者」


 今年3月25日、満65才になりました。世に言う前期高齢者への仲間入りです。60才還暦の年にはあまり老いという感じはありませんでしたが、病氣をしたせいもあり、65才という年が少し身に染みる今日この頃です。
 とは言っても元氣さ(心の元氣、身体の元氣、経済的元氣)は人一倍あるつもりです。その話を少し書こうと思います。

 まずは、早寝早起きです。今我が家は、65才の私、66才の妻、88才の母の3人暮らしです。
 しかも、三人三様それぞれ持病もちという家族です。夕食は(会合等なければ)19時頃に終わり、テレビを観るでもなく、21時頃には就寝。目が覚めるのが3時か4時。私は目覚まし時計はかけません。

 目が覚めたらとりあえず1階に降り、トイレを済ませたり、お茶を飲み時間を確認します。3時39分前だったらもう一度ベッドへ、それ以降だったら新聞も来ますので起床です。
 今、この原稿も平成30年3月30日午前3時39分から書き初めました。

 私は2年前に軽い脳梗塞を患いました。
 その時お医者様から、「前原さん、今回が2度目の脳梗塞ですよ。一度二度は軽かったですが、三度目があれば半身不随かあの世行きですよ」と宣告されています。朝、目が覚めずあの世に行く可能性も他の人より多いのですから、朝、目が覚めることだけでもありがたい、そんな念いで一日を迎えられるのも、年のせい、病のせい、と感謝するばかりです。

 次は、死というものに近さを感じます。若い頃は死ぬなんてことは考えてもいませんでしたが、今はいつ死を迎えるかわからない、そんな思いは常にあります。    
 逆に若い頃は死に対する漠然とした恐怖がありましたが、死が近くなった今、それは薄らいでいくように感じます。死を喜んで迎える心の準備が老いてゆくということかもしれません。又、物事、人に対する考え方も大きく変わりました。

 若い頃は全て二つに分けて考える習慣がありました。この人は敵か味方か、いい人か悪い人か、この花は美しいか醜いか、この状態はいい状態か悪い状態か・・・。  
 善悪、美醜、好き嫌い、幸不幸、良し悪し・・・。しかし、今は全て善、全て善人、全て美、全て幸、全て良し・・・と思えるようになりました。

 私は永い間、高校受験で朝日高校に落ち、関西高校に入学したことを不運、ダメな人生だと劣等感を持っていましたが、今では関西高校へ行ったからこそ今日がある。朝日高校を落ちたことが本当に良かったと、心の底から思えるようになりました。まさに全肯定です。これがよい、目の前にいる人、モノ、状況、全てが自分を善くしてくれる為にあるのだと思っています。

 最後にもう一つ。やはり後に繋げるということです。
 これは会社だけでなく、家や自分のやっている役職。例えば町内の役職であったり、ボランティア団体・福祉法人・中高の学校の役員、色々なお役を受けています。これを後に繋げるということを意識するようになりました。

 我が家は娘二人です。二人とも嫁いで県外に居ます。また会社は岡山県内に4拠点総勢70名という世帯になりました。町内会のお役も中学校高校のお役も、何年もお受けしています。そろそろ代替りが必要です。

 しかしここで重要だと思っていることがあります。
 次の適当な人を探すことも大切ですが、私が私の次を探し、次の人に繋がるということよりも、私が私の前の方(人)に繋がることが大切だと思っています。すなわち、家であれば両親やご先祖様、会社であれば職親、過去の上司、町内会や学校であれば今までの役員の方々、しっかり、私が上に繋がることにより、下が出来ていくのだという確信があります。

 裸で生まれて来た身、また裸で死んでゆきます。老いるとは、生まれてから今まで身につけていたもの、薄汚れたシミや汚れや垢を一つ一つ削ぎ落としてゆくことかもしれません。

 人が純真無垢で何の汚れも恐れも知らず生まれてきたように。

                                代表社員 前原 幸夫

posted by 前原幸夫 at 15:52| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月02日

3月の言葉!「平成時代その2」

「平成時代その2」

 前月号で平成の振り返りをやり、今月号はその続きです。

 平成13年4月、第85・86代 森 喜朗氏が総辞職した後、登場したのが小泉純一郎氏です。小泉氏は在任期間も長く(1980日)人氣もあり、政策的にもどんどん社会を動かし、安定感があった時代です。

 郵政の民営化をそれに反対する自民党の議員に刺客を立てるという手法で強引に行い(強いリーダーシップとも言えますが)、貴乃花がケガを押して優勝すれば、土俵上で感動・感激を素直に表現する庶民性も持ち合わせていました。
 一番の功績は北朝鮮に拉致された5人(後にそのご家族も)を日本に連れ戻したことでしょう。北朝鮮との厳しい交渉は想像を絶するところですが、よく願晴ったと思います。余計なことですが、帰国者の一人、蓮池さんは私と同じ大学で同級生になります。
 ただ、聖域なき構造改革と称し、規制改革を行ないましたが、今岡山の両備バスが31路線を廃止するという申請をしたことで、顕著にそのひずみが表れているように思います。小さな政府、官から民へ、この流れは正しいとしても、セーフティネットは、やはり政治が作っていかなければならないし、政治の役割だと思います。

 小泉純一郎の長期政権が終り、平成18年9月26日から安倍晋三現総理大臣が366日、福田康夫氏が平成19年9月26日から365日、麻生太郎氏が平成20年9月24日から358日、総理大臣を務めます。
 丁度図ったように一年周期でコロコロ内閣が変わり、国民は自民党に愛想をつかしてしまいます。ただこの3人、小泉政権では要職を歴任しており、小泉後の準備はしっかりしていたはずですが、安倍氏は消えた年金や、ご自身の健康問題で、福田康夫氏はリーマンの救済とアフガニスタン派遣を日本に迫るアメリカに対抗するために、麻生氏は漢字の読み間違えや、バーでの飲みを食いに難癖をつけられる形で、退陣に追い込まれました。

 平成21年7月に行なわれた、第45回衆議院の総選挙で、自民党が惨敗し、民主党が308議席を獲得し、民主党政権ができ上がります。
 それから「失われた3年」とはよく言ったもので、トップバッターの鳩山由紀夫氏は、子供手当で国債を乱発。
 事業仕分けという名目で科学技術の振興が遅れ、沖縄の基地は最低でも、県外へと全く出来もしない無知というより他にない暴言で退陣。
 次は菅直人総理大臣、中国漁船と日本の巡視船との衝突事故や、東日本大震災に対する対応のまずさ、最後に登場した野田氏の頃には支持率も急落し、とても政権を担える状況ではありませんでした。
 民主党政権の最大の失敗は、脱官僚です。明治以降、脈々と作り上げた官僚の役割と、官僚のノウハウを使うことをやめたことです。
 民主党政権に対する国民(私も含まれますが)の淡い期待は裏切られ、民主党政権は平成24年12月26日で終わりを迎えます。

 そして登場するのが、現総理大臣、安倍晋三氏です。民主党政権が良かった点を敢えて言えば、この3年間、自民党が下野し、もう一度日本の未来、日本の経済、日本の外交、様々な問題を想定し、方向性を見出す時間を持てたということかもしれません。
 事実、安倍内閣、自民党政権になって、円安誘導、株価上昇、雇用の増大、企業収益の良化、また、少ないかもわかりませんが、賃金の上昇・・・
 今まで鬱積していたもの、閉塞感を一機に解放したように思います。

 コンクリートから人へで、激少した公共事業。このあおりで地場の小さい建設土木業の方々は、辛酸をなめさせられました。それが太陽光はじめ、さまざまな設備投資の税制上の後押しもあり、また、公共投資の回復もあり、この数年かなり良化しているのは事実です。

 平成の時代、様々な失敗や過ちを各総理大臣は犯してきました。しかし、その中でもキラリと光るすばらしい政策もあったはずです。
 良いところは活かし悪いところは他山の石として見直し、素晴らしい日本を作っていくことを願いながら、平成の後の時代に夢を託したいと思います。




                           代表社員 前原 幸夫
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2018年02月06日

2月の言葉!「平成時代その1」

「平成時代その1」

 今年の年賀状のキャッチコピーは「そうか!平成30年か!」でした。
 そして、平成31年(2019年)4月30日、あと1年と少しで平成の時代も終わりです。まだ後1年4ヶ月ありますので、大きく変化し、変動してゆくでしょうが、それを承知の上で、この30年を簡単に振り返ってみました。

 昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇崩御され昭和は終わりました。
 当時の小渕官房長官が平成と書かれた額を持ち、テレビに映っていた姿を思い出します。
 平成元年当時の総理大臣は第74代竹下登氏です。
 平成元年4月から消費税が3%で導入され、まさにこの年は消費税元年となりました。この年12月29日、株価の終値は38,915円87銭と史上最高値を記録しています。
 バブルの絶頂、いやバブル崩壊の始まりの年でもありました。
正式には、バブルと呼べる年は前年の昭和63年(1988年)と平成元年(1989年)というのが通説です。
これは昭和63年1月から平成元年12月まで、24ヶ月連続で株価が上がり続けたことを持って言うそうですが、昭和63年1月スタートの株価は、21,564円でしたから、なんと2年で17,351円80%の上昇というもの凄い時代でした。
それからバブル崩壊へと向かいますが、平成元年の6月には総理大臣が蜂の一刺しの宇野宗佑氏に変わり、69日の寿命のあと、76代総理は政治改革を唱える海部俊樹氏、平成元年(1989年)8月から平成3年(1991年)5月まで在職。
その間、湾岸戦争があり、アメリカはクリントンが大統領となり、それに応じるかのように平成3年11月、宮澤喜一氏が総理大臣になります。
証券会社や銀行の不良債権が表面化し、経済に強いと評判の宮澤氏の出番でした。
しかし、一度転がった経済は止まりません。不動産価格が下落し、融資が焦げ付き始め、株価も平成4年(1992年)8月には14,309円という安価を付けました。
3年前と比べ24,000円も下がってしまいました。
これに驚いた宮澤総理は株の売り出しを手控えて欲しいと金融機関をはじめ、民間企業に要請をするというドタバタぶりでした。
そんな自民党内閣に国民の審判が下ります。
平成5年(1993年)、なんと日本新党の細川護煕氏が79代、羽田孜氏が80代と席に座りますが、日米の自動車摩擦など内外に多くの難問を抱えている中、寄り合い所帯のパフォーマンス政権は長続きしません。
しかも、下野した自民党が総理に担ぎ出したのは社会党の第81代村山富市氏でした。(平成6年6月〜平成8年1月)
その間、阪神淡路大震災やオウム真理教事件等、経済の下落と共に世相を暗示するような事件が起こりました。
この内閣は自民党、社会党、さきがけの連立政権でしたが、その後第1次、第2次橋本内閣が終了する平成10年(1998年)半ばまで続けられます。
村山総理の後、平成8年(1996年)からは橋本龍太郎の登場です。
橋本内閣は平成8年(1996年)1月から平成10年(1998年)7月まで続きますが、バブル崩壊を身にしみて感じる時代でした。
平成9年(1997年)4月、日産生命が経営破綻、11月には三洋証券の倒産直後、北海道拓殖銀行の破綻、そして山一証券の破綻、平成元年には38,000円の株価は10年で15,000円まで下がっていました。
それから、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、次々に金融機関が破綻してゆきます。
そんな中、財政再建を掲げる橋本総理は消費税を3%から5%に上げます。これが更にデフレを加速したと言われています。
平成10年(1998年)にはあの平成を宣言した小渕恵三氏が第84代の総理に就任します。小渕内閣は平成12年(2000年)4月まで続きます。
21世紀の幕開けの総理大臣です。しかし小渕氏は脳梗塞で倒れ職務不能となり、急遽、森 喜朗が小渕内閣を引き継ぐ形で総理大臣を務めます。
結局、森氏は平成13年(2001年)4月まで総理の座に居ますが、失言癖があり、ハワイ沖で水産高校の実習船が沈没した「えひめ丸事件」の際、ゴルフ中であったと非難され、内閣支持率が低下し総辞職に追い込まれました。
その後登場したのがあの小泉総理です。

今月はここまでとさせていただきます。

代表社員 前原 幸夫
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2018年01月01日

新年あけましておめでとうございます

 平成30年の輝かしい幕明けです。皆様お健やかに新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
 平成も30年、しかも後16カ月の命です。平成31年5月1日には、平成から年号が変わります。振り返ってみますと、平成元年は消費税元年でもありました。3%という税率でスタートした消費税も一応の打ち止め感のある10%移行が平成31年(元号は変わりますが)10月1日から実施とは何か不思議なものを感じます。消費税が10%になれば、消費税の税収が所得税を抜き、日本国の税収源ではトップに立ちます。とりあえず当分の間は10%を据え置くでしょうから、平成はまさに消費税の時代といっても過言ではないでしょう。バブルそして崩壊、長いデフレ、政権交代そして自民党再奪還、金融大緩和、円安、株高政策によりデフレ脱却景氣回復と目まぐるしく変わってゆく平成でした。
 その一方、世界は二極対立(東西冷戦)から極内対立とでもいうべき状況が表われました。
 今まではロシア、中国を中心とする共産圏とアメリカ、EU、日本を中心とする資本主義圏の対立だったものが、今やアメリカ国内でEU加盟国内で、資本主義国同志が対立し、二分化されています。統合へ向うべきなのに・・・。
 これも統合へ迎う一つのステップでしょうが、年末のエルサレムをイスラエルの首都と認めたトランプ大統領の英断?により更に混迷を深め、これが中東状態の不確定性を増し、原油の生産調整とからめ石油の高騰を招いています。
 今年もこの流れはより加速し、自国至上主義、自国ファースト主義が益々進行してゆくのではと危惧いたします。
 このような状況の中、日本国内では人づくり生産性革命が叫ばれています。
 戦後の団塊の世代がリタイヤし、生産人口が減少する中、その大勢の人達を養ってゆく必要上、減ってゆく 生産人口と増えてゆく消費人口の間の中で一人当たり生産性の向上が不可欠となってきました。
 私も開業して33年目に入りますが、この間コンピューターの進歩、スマホをはじめとする通信機器の進歩は目を見張るものがあります。
 しかも、この進歩により生産性は向上してきましたが、中味はどうでしょうか。
 この30年間、技術の進歩に見合う質的上昇はあったでしょうか。
 残念ながらそんなに質は上っていません。中小企業は例外なくそうだと思います。
 それは何故か一言で言えば、技術の進歩で便利になった分、技術の進歩で時間が節約できた分、価格に転換せず、処理件数(販売数)を増やしたことにあります。
 新しい技術に見合う付加価値業務をやってこなかった、いやしなくても市場が拡大し生産性は向上し、売上・利益は確保できたからです。
 もっといえば付加価値の上がる業務を拡大せずに従前の業務をスピードよく処理できた分、処理件数(販売数量)を増やしていったということです。平成の時代は良かったかもわかりませんがこれからは通用しません。
 何故ならば消費人口が減少するからです。消費能力が減退するからです。
 市場の拡大は難しく販売数量が下がる以上、販売価格を上げてゆかなければなりません。
 価格の上昇をしてゆかなければなりません。そのための人財育成、人づくりです。
 AIや最新のPC、通信機器を使いこなせるだけでなく、それらを使って売上を上げてゆく、それらを使って新規の売上を増やしてゆく人財の育成が急務です。販売数量から販売単価へのシフトのはじまりです。人財育成元年です。
 私どもも、今年より様々な学びの機会をご提供いたします。一緒に学び成長してゆきましょう。
 今年一年よろしくお願い申し上げます。


                            代表社員 前原 幸夫
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2017年12月01日

12月の言葉!「労働生産性」

「労働生産性」

最近、「労働生産性」という言葉が飛び交っています。
安倍内閣の打出した「働き方改革」も労働生産性の向上がなければできません。そもそも労働生産性とは何でしょうか。
 まず、生産性とは何か。
生産性=(算出(output))/(投入 (input)) であり労働生産性とは、社員1人当たりの生産性です。
社員1人当たりの産み出す成果ということもできます。
数字に置き換えれば1人当たり付加価値額です。色々、付加価値額の定義はありますが、ここでは売上−仕入(材料費)−外注費=付加価値額とし、それを社員の数で割ったものを1人当たりの労働生産性として話を進めます。
(一定時間に物を生産する量や販売金額を基にする物的生産性というものもあるようですが。)
(売上−仕入−外注費)÷社員数という1人当たりの労働生産性を上げるにはどうすればよいか。

 1つ目は、大幅な機械化やIT化です。ますます少子高齢化は進行してゆきます。人がしなければならない業務と、機械でもできる業務、機械に任せることのできる業務との分別です。作業効率のアップ、これが不可欠です。
我々の業界も今から40年前は全てが手書き、手集計(そろばん)でした。1人が担当できる件数は10~15社くらいでした。それが、コンピュータ
が導入され、1人30社くらいは優に担当しています。
 2つ目は、商圏の拡大です。岡山市のみで商売していた時代から、今や世界相手です。インバウンドもあります。いい情報はネットにより瞬時に日本全国、世界中に流れます。商圏、販売方法の見直し、これも大切です。
 3つ目は人財育成です。社員数を減らせば1人当たりの労働生産性は上がりますが、中小企業では人は宝、易々とクビは切れません。社員1人1人を戦力として育て上げなければなりません。
それには教育です。売り方や、作り方などを教えるのも大切ですが、なぜ働くのか、なぜ売上を上げるのか、なぜこの会社の利益が必要なのか等々、根本的な人間教育が必要です。
 
有名な話ですが、ある靴の販売員が2人してアフリカの原住民に靴を売りに行った話です。アフリカから帰って社長に報告します。1人は「あそこに靴は売れませんよ。誰も靴を履いていませんから」と言い、1人は「社長、すごい市場です。誰も靴を履いていませんから」と真反対の報告をしたということです。靴を履いていない、裸足の原住民を見て1人は売れない、1人は売れると判断したのです。
 この判断力、現状認識力の差で企業は進む方向が違ってきます。
 成果=能力×ヤル氣×考え方 です。能力の教育だけでなく、ヤル氣や考え方の教育、これも大切です。いや中小企業では、このヤル氣や考え方の教育の方が大切かもしれません。
 なぜならば、大企業の社員は、大企業に入ったという帰属意識(誇り)が高く、又、同期入社の社員も100〜200人。会社によっては1,000人といるわけですから、自然と競争し合い、勤労意欲を上げてゆきます。ヤル氣満々の社員団が形成されます。

しかし、中小企業は残念ながらそんなモチベーションはありません。名も知られていない会社に入り、競争し合う仲間もいない。自ずと勤労意欲は上がりません。
ヤル氣や考え方が低レベルであればいくら能力があっても宝の持ちぐされ、能力を発揮してもらえません。
又、能力を高めるためには時間がかかります。ヤル氣や考え方のアップはやり様によっては一瞬で変わります。瞬時にアップします。氣を変ればいいのですから。
社長が社員をその氣にさせ、社員の氣を変えてゆく、この人間教育です。それは社長自らが行なう必要があります。
コンサルタント(借り物)では効果は薄いでしょう。 社長が自分の言葉で人生観や職業観、人間観や利益観、様々な念いを熱く語ることです。ここで大切なことが一つあります。
それは、心の底から社員の成長を願い教育することです。ある歯科医院の話ですが、その医院では毎朝、朝礼を行ない挨拶や返事、笑顔の創り方、院長スピーチ等々行なっているのですが院長先生は次のようにおっしゃいました。
「この朝礼はある意味社員研修なのです。しかし、私のために医院の為に若い女性たちに強いているのではありません。若い女性スタッフがやがて結婚し、子どもが出来た時、お辞儀や挨拶、返事や笑顔をしっかり身に付けた妻や母親になってもらいたいという念いからなんです」
社長のために会社のための教育ではなく、社員の将来のために、社員が自社を辞めた時にも役立つようなそんな人間教育をやっていきたいものです。
そのことが取りも直さず、労働生産性を上げる近道なのですから。

                            代表社員 前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 00:00| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする