2016年12月08日

12月の言葉!「幸夫の部屋」

「幸夫の部屋」

 25年間書き続けた本誌の巻頭言を初めて、妻であり当社の事務長である前原みち子に譲り、私が『幸夫の部屋』を担当させていただきます。
 今年は私が6月、妻が9月の末から12月1日まで入院という大変な年でしたが、逆に学び得ることも多かった年でした。
 9月の終わりから約2ケ月妻に入院をされ、あらためて主婦業の大変さ重要性も痛感しました。
 我が家は、今は私たち夫婦と86才になる私の母との3人家族ですが、それでも朝夕の炊事、片付け、掃除、洗濯、近所の付き合い、ゴミ出し等々やることは数限りなくあります。
 今、配偶者控除を見直しし、女性を仕事に駆り出そうという女性活躍社会、男女均等社会などと言われていますが、主婦業こそが女性の本業の一番大切で、一番美しく、一生ふさわしい職業であることを実感しました。(こんな事を書くと世の女性の奥さまからお叱りをいただく事は承知で・・・。)
 美しい日本を創る(取り戻す)にはまず美しい家庭からです。そしてその中心に美しい女性が居ます。
 我が家もやっと美しい女性が戻って来てくれ、家も安定し、落ち着きました。これ実感です・・・。
 それだけ家庭における女性は大切な大事な重要な存在なんだと強く思い知らされ、また来年は健康な一年でありますよう養生してゆきます。

                         代表社員 前原 幸夫  


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2016年11月04日

11月の言葉!「捨てる髪あれば拾う髪あり」

「捨てる髪あれば拾う髪あり」

 最近、ヘアースタイルを変えました。今までは、高校2年から左七三分けを通してきましたが、この度バッサリ(というほどありませんでしたが)切って、ほとんど丸刈り状態になりました。
 中学から高校2年の途中まで丸刈りだったように記憶していますが、それから63才の現在まで約45年間慣れ親しんだへアースタイルに別れを告げました。  
会う人会う人面白おかしくちゃかされたり、もしかして脳梗塞の手術でもしたのではないかと思われたりしていますので、経緯をご説明しておこうと思います。
 
 既に本氣9月号に書きましたが、6月16日から20日ばかり入院をしていました。その後遺症で今でも目の見え方は少し見づらい箇所があるのですが(もちろん生活に支障はありません)、なぜこんなことになったのかベッドの上で考えてみました。
 一つは、既に書きましたが、静の働き、陰の働き、すなわち休むということを非常に粗末にしていたということ。もう一つ、天は前原幸夫という男に100%の身体的能力を与えると120%無理をしてしまうので、80%の機能にしてやろうと思ったのではないかということです。目を少し見づらくし80%の機能にして、それでちょうど100%の力で生き抜いていけると少しハンデをかけたのではないかということです。
 
 ならば、外見も80%にしてみよう。不要なところあまり重要でないのにこだわっているところ、そこを削ぎ落としてしまおうと考えました。そして思い至ったのが頭髪でした。
 7月5日、退院の翌日、理容室へ直行し刈ってしまいました。
 刈って感じることは、もっと早くやればよかったということです。こんなに生活が楽になるとは思いませんでした。朝ドライヤーを使い寝ぐせを直し整髪をする必要もありません。分け目がキチッとなっているか心配することもありません。クシを使えば髪の毛2〜3本抜けてしまいます。ドキッとすることもありません。汗をかけばすぐ顔を洗うごとく一緒に頭も洗えます。風呂も洗髪しない分早くなります。乾かす必要もありません。ヘアートニック、リキッドもいりません。
1瓶12,000円もする育毛剤もいりません。毛髪にかけていた時間、お金、氣づかい、大幅になくなりました。
しかも、お世辞半分でしょうが、若くなったと大評判です。
 
「得るは捨つるにあり」という言葉があります。生まれた時には丸裸、髪の毛もほとんどない。それが服を着、少しばかりのお金や車など物を持ち、知恵をつけいろん
なものを自分のものとして成長してゆきます。
 成長する、年をとるということは、いろんなものを持つ、身に着けるということかもしれません。
 しかし、生まれた時の自分は丸裸、死んでゆく時も何も持ってゆけません。
焼いてしまえば髪の毛も煙となって消えてしまいます。
 人は、いろんな物をいろんな事をいろんな知識や知恵を持っているようで、実は皆借り物なのではないでしょうか。
 本当の自分は丸裸、何も持っていないのです。だから髪の毛をほんの少し刈っただけでこんなにも氣が楽に生きることが楽しくなるのです。(本当の自分に近づくから)

 丸山敏雄は言っています。
「世には「捨て身」などという言葉があって、何だか物すごいように聞こえたり、そんな事ができれば偉そうに見えたりするが、実は人はいろいろなものを持っているように思われていて、ほんとうは何も持っていないのである。持っているように見えるものも、取ればなくなる、捨てれば減る。そんなものは、我が物でもなんでもない。ほんとうは、人間は無くなるようなものなんか、もっていないのである。なくしたように見えるのは、実は自分の本当の姿に返ったのであり、ほんとうの自分の真面目に返ったのだから、それが、うそのない自分である。」と。

 人生も六十半ばに入ります。今まで、こびりついていたものを一つ一つ、一枚一枚削ぎ落とす人生が始まっているのかもしれません。

                           代表社員 前原 幸夫
  
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2016年10月05日

10月の言葉!「目利き」

「目利き」

 金融緩和だ、マイナス金利だと、市中に出廻るお金の量をジャブジャブ出し、金利を限りなく0にし、デフレ脱却、2%のインフレを起こし、そして将来物価が高くなるのなら、今のうちに買っておこうという購買意欲を盛り上げ、それが企業収益に貢献し、賃金引上げを惹起し、又消費が増すという景氣の好循環を狙っているのがアベノミクスのシナリオです。
 
 我々借り手には、お金の貸し借りだけを見れば、借り易く又金利も低くなりありがたい世の中です。しかし、一方の銀行(信金も含めた金融機関)はどうでしょう。
 銀行はこの20年、バブル崩壊による不良債権の処理、そして、Bis規制で自己資本充実という経営の健全化、リーマンショックというメガトン級の経済危機、金融円滑法の導入により不良債権の棚上げ、おまけにノーパンしゃぶしゃぶというガバナンスの不正等々、常に監理、監督され、時代の流れに翻弄され続けて来たように思います。
 それを監督する官庁が金融監督庁、今の金融庁です。今までの金融庁の最大の目的は銀行経営の健全化でした。ですから少しでも経営悪化した銀行には公的資金の注入といういわば政府の元での再建をしいられ、時には合併、時には破綻という厳しい処置がなされてきました。これは日本経済とりわけ地方経済を安定化させるためには、まず資金のポンプ役(供給)である銀行の経営体質が万全でなければ、供給が安定してこないという前提でした。
 そこには、金融庁が出す銀行の評価を行なう「金融検査マニュアル」、不良債権をあぶり出す「資産査定」、リスクを丸投げした「信用保証協会依存」というものが銀行にとって最も大切なハードルとなっていました。金融庁に睨まれないよう検査を通ること、銀行が貸し出している貸金を不良債権として処理されないこと、自己資本比率を低下させないため、信用保証協会の保証に頼りリスクをとらないことがいい銀行、いい銀行マンの条件となってしまいました。
 いわば銀行は借り手の中小企業の方を向かず、金融庁というお役所を向いて仕事をしていたわけです。
 
 しかし、アベノミクスで地方創生が唱えられ、今や大きく変化しようとしています。
 平成27年7月に出された金融庁の行政方針です。森長官の覚悟が随所に読み取れるもので、今までの金融庁の金融行政への大転換を指し示すものとなっています。
 まず、金融庁の目的として、「企業、経済の持続的成長と安定的な資産形成等による国民の厚生の増大」を一番に掲げ、その下支えをするのが銀行であり、それを指導、監督する官庁が金融庁であると目的を明確にしています。
 そのため銀行に、真に顧客のためになる質の高い金融商品、サービスの提供を義務付け、担保、保証依存する融資姿勢を改め、事業に対する目利き力を高めると共に、同時に経営の健全化を図ってゆくことなどが、方針として掲げられています。
 すなわち、銀行が融資判断する時には、マニュアルのとおりにしていたものを、企業の成長、「将来性」に着目し、銀行自身の「目利き」で実行し、担保、保証ではなく 「稼ぐ力」を評価して融資判断をせよとせまっているのです。
 
 「目利き」という言葉を久しぶりに目にしましたが、そう言えば、昔(今から30年以上前)の銀行マンは時には、自分の判断で融資を実行していたように思います。
 お好み焼きの千房の中井社長の30年も前のお話です。
 創業間もない頃、新規出店をしたいと融資を依頼したところ(もちろん担保も保証人もなく)、その銀行の支社長は中井社長の毎日事細かく記載された現金出納帳を見て融資に応じてくれたと言います。その出納帳には売上経費はもちろん道で拾った10円までも記されていたと言います。
 中井社長の人柄、経営に対する真摯な姿勢、これからが担保になったのでしょう。
 まさに、銀行の事業に対する「目利き」経営者への「目利き」です。
 しかし、それと同時に大切なものは我々事業者の側にもあります。銀行の目利きに見合うだけの目利きにかなうだけの事業に対する展望、事業の将来性、自らの経営力の高さの立証、説明責任です。
 自社の強味、弱味を説明できますか。強味をより強く、弱味を克服する処方箋を持っていますか。自社を取り巻く経営環境の変化に深い洞察力を持って分析でき、その変化の最先端に居続ける術を身につけていますか。自社の進むべき方向性について、自信を持って示し、それを社員と共有できていますか。
 そこを銀行は見るのです。事業性評価というのですが、企業の事業力を評価するのです。それは、中小企業の場合は社長の事業力にほかなりません。
 
 今、銀行は大きく変わりつつあります。過去の財務や担保に必要以上に依存することなく、事業の内容、社長の念い等々をふまえた融資やコンサルティング機能に対応しなければならなくなっています。
 それは、今までのようにいくら銀行の健全性を高めても、いくら不良債権の少ない銀行を創っても、地方経済は活性化しないと分かったからです。銀行の借り手の中小企業が成長発展し、より設備投資や、給与や仕入にお金を使ってくれないと豊かな地方はできない、まさに地方創生はないという考えに至ったからです。
 地方創生というアベノミクスの大方針の中で、銀行が少々のリスクをとり、中小企業を成長発展させることこそが近道であるということです。
 とは言え、どの中小企業も一律に手を差し伸べてくれるものではありません。
 今回の金融庁の方針変更は成長発展をしてゆこうと決心、覚悟し高い志を持っている企業には追い風ですが、現状に満足し、現状維持に甘んじている企業にとって逆風となる大変化であることは、間違いありません。
 共にこの風を追い風にしてゆこうではありませんか。



                             代表社員 前原 幸夫   
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2016年09月01日

9月の言葉!「ジャパニーズスタンダード」

「ジャパニーズスタンダード」

 今、ブラジルのリオで行われているオリンピックも終盤を迎えようとしています。
 日本の獲得したメダルは史上最多となり、連日表彰台を日本人が賑やかしています。
 又、4年後の東京オリンピックにもはずみがつくことでしょう。
 金メダルを取れば、君が代が流れ、メダルを取れば日の丸が上る。日頃、君が代や日の丸に関心のない方でさえ、この時ばかりは、心躍り氣高まり日本人としての誇りをいやがおうでも掻き立てられるのではないでしょうか。
 
 体力や体格では劣っている日本人が世界を相手にここまで健闘できるのはなぜでしょうか。私は大きく3点あると思います。
 1つは練習量です。
 メダルを取った選手が口々に厳しい練習について話をします。
 一日12時間以上もプールにつかっているシンクロ選手。2人の同僚の選手を背負い腕力だけでロープ登りをするレスリング選手。萩野公介選手は1日1万6000m〜1万8000mを泳ぐと言います。
 質量ともに他の国の選手を圧倒する練習量が身体能力の劣勢をカバーしているのでしょう。
 2つ目は科学的なトレーニングです。
 ただやみくもに練習するというのではなく、カメラによる画像分析や科学的データの集約分析、運動生理学を生かしたトレーニング、メンタルを重視したトレーニング。
 医学的なサポート体制の確立等、日本人の非力さ、体格の小ささを逆に長所に変えていこうとするトレーニングの開発がさまざまな競技種目にあみ出されてきました。
 そして、それをバックアップしているのが、2001年オープンした国立スポーツ科学センターです。トップアスリートたちが高度かつ科学的なトレーニングをする拠点となっています。
 3つ目は、日本民族の精神性の高さ、歴史の深さではないでしょうか。
 日本民族は文字もなかった1万年以上前から、寄り集まって生活してきました。皆で狩りをし、皆で耕作し、皆で分け合い、ひもじさも不作も豊作も共有してきました。助け合ってきました。
 
 日本民族は助け合う民族「和の民族」です。「和」の真髄は「己を尊び人に及ぼす」ことです。自らの能力、技能を最大限に磨き、鍛え、高め、そしてそれを人の為に使い、人の役に立ち、人を喜ばせ、その喜びを我が喜びとしてきた民族です。
 己を尊ぶことは己を大切にすることですが、最も己を大切にすることは自分の個性、能力を最大限に伸ばし世の為人の為に働かすことです。この精神性があるからこそ、日本のアスリートは地獄のような練習にも耐えられるのです。
そして、自分の為という小我からチームメイトの為、家族の為、国の為という大我のモチベーションがあるからこそ、ここぞという時、日頃鍛えた能力以上のものが個人個人発楊され、人の為という心がチームワークを倍化させ、1+1=3にも4にもならしめているのではないでしょうか。
 事実、陸上男子400mリレーでは個人の持ちタイムを合計すれば7位なのに、ボルトも絶賛する練習量の多さと科学的バトンリレーと、「4人の和」でみごと銀メダルに輝いたのはいい例だと思います。
 
 人間は自分の為よりも人の為にと思う時の方が能力が出、車を買ったとかマイホームを建てたとかいう私利私欲で感じる幸せより、人を喜ばせ人が喜んでいる姿を見る方がより幸せを感じることができるのです。
 なぜなら人間は一人では生きていけないからです。仲間と共にあり、仲間と共に苦楽を経験するからです。
 日本民族はその経験をすでに一万年以上前から、この日本列島で脈々と行って来たし、それを血肉にして来た民族なのです。
 そんな誇りを胸に4年後の東京オリンピックを迎えたいと思います。
世界中が日本民族の精神性に驚嘆し、日本スタンダードが世界のスタンダードになるそんな大会になって欲しいと祈るばかりです。       

                               代表社員 前原 幸夫      
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2016年08月04日

8月の言葉!「病氣は生活の赤信号」

「病氣は生活の赤信号」

 この本氣は、平成3年に第1号を発刊し、毎月発刊し続け今月で第277号となります。
 先月は入院中でしたが、1ヶ月途切れるのもシャクなので、そうかと言って何も書くことがなかったので、私の病氣のことをつい書いてしまいましたら、多くのお客様から、大きな反響がありました。
 ご心配をおかけいたしましたことに対し、心からお詫び申し上げると共にお見舞いの数々心より御礼申し上げます。

 7月4日に倉敷中央病院を退院し、かかりつけのお医者様のところへ、7月5日に伺い、まず胃潰瘍の治療をし、そして脳梗塞については血液をサラサラにする薬、あと高血圧、尿酸値を下げる薬等を処方していただき、治療に専念しております。(もう一つ吐血があり、ヘモグロビンの数値が下がりましたので鉄分の補充する薬も)
 あれほど、好きだった酒も出来るだけ飲まず、外での飲み会は当面不参加です。(誘わないようにお願いします)
 おかげ様で、眼の一部に少し障害は残っていますが、痛いところはどこもなく、身体の不調も今のところ全然ありません。ただ脳梗塞をもう一度起こすと命取りにつながりますので、その再発防止を最優先に考えています。
 この程度のことでおさまったことに今はありがたく感謝する日々であります。

 師 丸山敏雄は「病氣は生活の赤信号」の中で、こう述べています。「肉体に病氣が起こった場合、これは肉体だけが悪くなったと片づけてよいであろうか。(中略)実は体がばい菌に侵されたり、悪くなったりする今一つその奥の原因がある。それは心の不自然なひがみゆがみが出来たことである。(中略)それで、病氣の根本である心の暗影(生活の無理なところ)を切り取ってしまって、朗らかな豊かなうるおいのある心になれば、肉体はすぐに治ってしまうものである」と。
 今回血を吐き、脳に血がいかなくなり、脳梗塞になったことの原因が少しの間、分かりませんでした。心当たりがありません。
 土日もなく朝から晩まで喜んで働き、ストレスと思えるようなものはほとんどなく、毎日おいしいお酒を飲み・・・こんな日々でしたから、何がいけなかったのだろうと、しばし考えてみました。
 そしてこんな文章にめぐり合いました。

 「夜が明けたから日が出るのではない。日が出たから夜が明けて天地が明るく万物が眠りからさめて、生々と活動をはじめるのである。夜になっても太陽はなくなったのではない。地球はいつも太陽の光明(ひかり)の中につつまれ、温熱(ねつ)の胸にいだかれている。
 ただ、その半分だけは、しずかに休ませて明日の働きを一段と活発にさせるために黒のヴェールでつつんでいるのである。」

 働くことには2つの側面があることに氣づかされました。陽と陰。働きにも陽の働きと陰の働きがあります。太陽は昼間は陽の働きをし、夜は陰の働きをしているわけです。夜になっても太陽は働いているのです。
 私は、今まで陽の働きばかりに目を向けていました。いや陽の働きしか働きと思っていませんでした。陰の働き、休憩、睡眠、心を和らげるひと時、そんな働きを怠惰なものと軽蔑し、重要視していませんでした。昼と夜の長さが一年通せば同じであるように、活動する働きと休む働きも、また同じように大切なものだということです。
 これからは、もっと休憩、睡眠など心と身体を休めることに心を配ります。大切にしてゆきます。

 もう一つ、やはり自分を粗末にしていたということです。一番の宝、それは両親やご先祖様からいただいたこの身体、己自身だということです。自分を粗末にしてどうして人を大切にできましょう。
 しかも、この身体は自分以外の生物もいっぱい入ってきています。ピロリ菌もそうです。ミトコンドリアというのもそうらしいです。自分の肉体は自分だけのものと思いがちですが、自分以外のものでもあるのです。
 自分の身体であって自分の身体でない。この身体をあり方を天賦のものと再認識し、ミトコンドリア等の共生菌を大切に生きてゆこうと決心しています。
 お医者様に今回の脳梗塞は二度目だと言われました。生活の悪習から引き起こしている自業自得の今回の入院でした。

 折角なった病氣をただ治すのではなく、喜んでこれを利用してゆき天からのプレゼントとして、間違いを正し、生活を改めてゆく覚悟でございます。
 今回皆様方のご心配、ご配慮、ご迷惑を心に刻みこれからの人生を歩んでまいります。
 本当にありがとうございます。

                       代表社員 前原 幸夫  
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2016年07月05日

7月の言葉!「救急車にて」

「救急車にて」

「ピーポーピーポー」遠くで救急車の鳴る音が聞えます。おぼろげな意識の中であれが私を迎えに来てくれている救急車かと思って横たわっていました。

 6月16日、私は里庄支社の一泊二日の真鍋島での社員研修に参加する為、笠岡港にいました。
 その日、朝起きた時から体がだるく、あまり暑くもないのに汗はかくし、生あくびは出るしという状態でした。講師の先生を迎えに岡山駅へ行く必要もあり、「すぐに良くなるわ」という、いつもの調子で朝8時自宅を出ました。岡山駅で先生をお迎えし、笠岡港を目指しました。
 途中、私の異変に氣付かれた講師の先生が、「運転を代わろうか」と、おっしゃっていただくぐらい顔の色は青ざめていたようです。
 それでも何とか笠岡港に着き、いざ上船という時、吐血。周りの人々のおどろいた声がします。
 「血だ、血だ!!救急車、救急車!!」私は、今までに経験したことのない体のだるさを感じながら横たわったまま、薄れてゆく意識の中でいろんな方の大きな声が幾重にもこだまのように遠くに聞いていました。
 どれくらい待ったか分かりませんが、救急車が到着し血圧を測り、いろいろと問診を受け、行く病院に連絡をしてくれています。まず、倉敷中央病院に連絡しましたが、できれば他を当たって欲しいということで、川崎医大へ。
 こちらもドクターヘリの準備があるとかでダメ。もう一度倉敷中央病院へねじこんでもらいました。
 この間のやり取りが丸聞こえ。意識は薄いながら少し不安にもなってゆきます。
 救急車は高速道路をはしり、一路倉敷へ。
 その間、救急隊員の方は優しく救護してくれました。時には励ましてくれたり、時にはあと少しだからと勇氣づけてくれたり、日頃お世話にならない、それどころか車を運転していると邪魔者扱いをしてしまいがちな、救急車に本当に良くしていただき、心より感謝です。
 途中、血圧が急激に下がり体温も低くなるのを感じ、人間の最後とはこんなものかと覚悟を決めた一瞬もありましたが、無事、救急車は病院に到着。すぐに治療が開始されました。
 集中治療室に入り、胃カメラをゲェゲェいいながら飲み、氣付いたら病室。外は暗く女房が心配そうに私の顔をのぞきこんでいます。
「日頃、私の言うことを何も聞かないから」とか、「これからはムチャはやめなさいよ」とでも言っているような微笑みを投げかけてくれます。それを見てこちらも腹の痛さを感じながら微笑んで返します。
 開業して30年、土日も休まず、朝4時半に起き、昼食は食べますが、休憩も取らず働き、夜は毎日酒を飲む。 そんな生活、そんな毎日でした。(酒は40年になりますが)
 体にいいことは何一つしていないと、女房に言われるまでもなく、反省しきりでした。
 言い訳になりますが、40年間の不摂生を詫び、身体をリフレッシュしようと、まさに前日、OSKのプライベートレッスンに通いかけたばかりでした。
 今のままでは良くないという自覚が当然ありましたが、結局それも間に合わず今回の吐血となったようです。

 入院1週間もすると胃も良くなり、食事も重湯から全粥となり、そろそろ退院かと思った頃、どうも目の調子がよくありません。新聞の文字がよく見えません(いや、見える部分と見えない部分があります)。
「えっ!」と思い先生に相談すると眼科は異常なし。MRIをとると、何と脳みそに白い部分が出ています。
 軽い脳梗塞です。これにも又びっくり。何と厳しい顔をしたお医者様の口から「もし、もう少し別のところだったら半身不随ですよ」とのこと。
 幸にも、少し視界が不自由ですが、五体満足。その治療をするため、消化器病棟から脳神経病棟へ移動です。病棟のハシゴってのを初めて経験いたしました。
 今日6月25日、あと一週間〜10日の入院検査が必要とのこと。

 この本氣が皆様のお手許に届く頃には、63年間の身体にしみついた汚れやウミをしっかりきれいにして、退院している頃だと思います。何かとご不便をおかけいたしますが、何とぞご容赦下さい。又、元氣で顔晴ります。
                                代表社員 前原 幸夫
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2016年06月01日

6月の言葉!「洗心寮」

「洗心寮」

 私は今、各種の経営者勉強会、経営者団体に加入させていただいていますが、一番優先度の高いものは、倫理法人会という会です。
 この会は、一般社団法人倫理研究所の法人部門であり、主な活動は、毎日の朝礼、毎週朝6時からのモーニングセミナー、そして毎月の夜の勉強会、そして年一回行われる倫理経営講演会です。
 全国に会員6万社を超え、単会の数も670ヶ所と、正に日本国中津々浦々で活動、勉強をしています。私はその会でお役をいただいており、年一回有料の倫理経営講演会の講師という立場で、今年は6ケ所廻らせていただきました。倫理経営講演会のパターンは2通りあります。1つは会員企業の内から朝礼実演と講演会、もう1つは事業体験報告と講演会です。
 
 今年3月、佐賀県鳥栖市倫理法人会で行われた倫理経営講演会は前者で、朝礼実演との組み合わせでした。 1ヶ月程前に当日のパンフレットが送られてきました。朝礼実演の会社は洗心寮と書いてありました。
 普通、社名が書いてあるのに、どこかの寮なのか? 寮生か?少しいぶかしげに見ましたが、氣にもせず、数日過ごしました。  
 そこへ清水英雄先生から「昭和天皇 御製にたどるご生涯」という本のプレゼントがあり、よし「本氣(マジ)」3月号と4月号にこの御本を題材として書こうと思い、戦後天皇の行幸を読んでいました。
 その本には昭和天皇が昭和24年5月22日、佐賀県基山町にある因通寺というお寺を訪ねられていたと書かれていました。
 そこには、39名の海外からの引き揚げ孤児がおり、その孤児を見舞うためにわざわざ足を延ばされたのでした。陛下は一部屋一部屋、声をおかけになり、孤児を見回り、最後の「禅定の間」に来られた時、直立不動の姿勢をおとりになり、一点をじっと見つめられました。そこには二つの位牌を手にした女の子が立っていました。
 そうです、あの「仏の子」であり、陛下の後ろ姿に「お父さん」と声をかけた女の子です。しかも、その39名の子たちが居る施設が洗心寮だったのです。
 
 私は驚き、パンフレットを探しました。やはり3月24日鳥栖市倫理法人会の倫理経営講演会の1部、朝礼実演は洗心寮と書いてありました。あの50年前に昭和天皇がわざわざ訪問された孤児の施設の方々が朝礼実演をやって下さるのかと、驚きと申し訳なさでいっぱいになりました。同時に早く行きたいという感情に強くかられました。
 そして当日、洗心寮の職員さんによる朝礼が行われました。夜勤明けという職員さんもおられました。寮長の調(しらべ)浄信さんのもと、元氣に規律正しい朝礼実演でした。それを見ながら、胸の熱くなるものを感じました。
 翌日、因通寺と洗心寮へお邪魔しました。因通寺は浄土真宗のお寺で境内の一角に、
「みほとけの 教えまもりて すくすくと 生い育つべき 子らに幸あれ」という昭和天皇の御製を鋳込んだ梵鐘がありました。私も一つつかせていただきましたが、昭和天皇のお言葉が響き渡っていくような良い音色でした。
 お寺の参道をおりたところに洗心寮はあり、少し見学をさせていただきました。
 今は児童養護施設として45名の児童を心身ともに健やかに育成されているとのことでした。
 
 前日の講演会、そしてモーニングセミナー、その後の因通寺、洗心寮の訪問と心を充足し鳥栖を後にしました。
 折しも3月25日は私の63才の誕生日。鳥栖市倫理法人会のモーニングセミナー後の朝食会でいただいたバースデーケーキも美味しかったですが、この2日間の体験が生涯残る素晴しいプレゼントになりました。
 お役を受けることによるご褒美なのだと、感謝でいっぱいでした。

                            代表社員 前原 幸夫
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2016年05月01日

5月の言葉!「孔子のくれた夢」

「孔子のくれた夢」

 3月31日年度末の日、私が福会長を務めさせていただいておりますありがとうインターナショナル主催の講演会が行われました。
 講師の先生は石(せき)卿(きょう)傑(けつ)さんで、今年30才の中国在住の青年です。
 彼は、中国の貴州省の農家に生まれ、両親の懸命の支えのおかげ様で大学を卒業後、超難関の弁護士資格を取得し、法律事務所に従事したのですが、なんと2009年10月弁護士を辞め、ボランティア活動に専念しました。
 その団体は、貴州民間助学促進会といい「貧しい子どもたちの勉強を助け、より良い本を読んでもらうこと」を主旨としている団体でした。
 勉強を助けるとは、経済的援助を行ない、就学難を抱える家庭を支えてゆくものです。
より良い本とは、山間地の子どもたちに、「学校がある」だけでなく、「より良く学ぶ」という環境を提供すること、具体的には子ども達が「論語」を中心とした文化的な古典を学ぶことにより、彼らが成長した時、社会的に有為な人格を持つ人間になるための助けを行なうということです。
 今、日本でも言われる経済格差が教育格差にならないよう様々な活動をしている団体と同種のものです。
 石卿傑さんは弁護士という特権階級の職を辞し、貧しい子ども達に論語を教えるという道を選択したのでした。そんな石卿傑さんがなぜ岡山で講演会を開くことになったのでしょうか。

 平成27年(昨年)5月16日23:00〜24:00 NHKのETV特集で石卿傑さんのドキュメンタリー「孔子がくれた夢」が放映されました。
なんとその番組を、あの、ありがとうの先生、清水英雄先生がご覧になっていたのです。中国の山村の貧しい子ども達に論語を教え人格形成を促している石卿傑さんを見て、清水英雄先生は大感動しました。
 そして、「よし!石卿傑さんを日本に呼ぼう。」と決意されました。たった一度のテレビ番組で一方的な知り合いです。どこに住んでいるのか、どういう風に連絡を取ればいいのか皆目分かりません。
 しかし、清水英雄先生は感動即行動。そして先生は中国との大きなパイプがありました。斉了会(ちいらかい)という団体です。
 この「斉了会」は日本と中国の国交が正常化されていない1965年(昭和40年)大学生が団体で香港から中国に入り、中国各地を訪問し、毛沢東はじめ周恩来、郭沫若など要人と会見をしたのが始まりでした。
 清水英雄先生も国交も未だない文化大革命で荒れ狂う中国に斉了会のメンバーとして、早稲田大学在学中の1968年第4次訪中団の一員として訪中をされたということです。その斉了会のメンバーであり、旧知の仲である池上正治さんなら、石卿傑さんを捜しあててくれるのではないかと石卿傑さん探しを依頼されました。
 池上正治先生は3月31日の講演会で、通訳をしていただいた方です。
 池上正治先生は東京外国語大学で中国語を学び、清水英雄先生とご一緒に訪中されて以来300回を超える訪中歴を持ち、中国に関する出版物は70冊を超え、中国人よりも中国を良く知る男と言われているそうです。
 3月31日講演会当日の午前中、我々は大森岡山市長を表敬訪問しました。
 こちらの通訳は池上正治先生。岡山市側の通訳は中国人の方が同時通訳をされていました。
 会談の後、その中国人の通訳の方が池上正治先生に、「あなたのような通訳ができるように私も励みます。」とわざわざ頭を下げに来られました。本場の中国人も正に舌を巻いたという感じです。
 
 清水英雄先生の依頼を受けた池上正治先生は、教え子も中国各地に居るし、様々なルート、チャネルから石卿傑さんを捜しあて、日本に来る交渉をしてくれたということです。
 そして、2016年3月25日、石卿傑さんは成田に到着、26日東京、27日足利市、29日高岡市、31日岡山市、4月1日守口市と計5カ所で講演会を開催され、4月3日関西空港から成都に帰国されました。
 日本の春、さくらの咲きほこる素晴らしい日本を堪能されたことと思います。
 これからの石卿傑さんの活動に大いに期待をしているところであります。


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                           代表社員 前原 幸夫

2016年04月04日

4月の言葉!「昭和天皇の戦後」

「昭和天皇の戦後」

昭和20年8月15日ポツダム宣言を受諾して、大東亜戦争は終わりました。
無条件降伏といういまだかつて日本が経験したことのない状況に、天皇は自らの命をかけて国民を守ってゆかれます。
 昭和20年9月27日に食糧難であえぐ日本国民の窮状を救うため、GHQの最高司令官マッカーサーを単身で訪問されています。
マッカーサーがパイプを口にくわえ、昭和天皇と写っている有名な写真の撮られた日です。マッカーサーは昭和天皇が命乞いをしに来ると思い、面談の前にあの写真を撮らせました。しかし、実際に昭和天皇の発せられたお言葉は、
「私は戦争遂行にあたって、政治軍事両面で行なった全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした。」と、今回の戦争の全ての責任は、昭和天皇ご自身にあるとした上で、
「私については、思うままになされて良い。私を絞首刑にしても良い。しかし、私の国民を飢えさせないで欲しい。」
 そう言って、マッカーサーを驚かせただけでなく後日マッカーサーをして、
「人間は所詮、欲にどこまでもつかまっているものであるから、人間が人間を救うことはできない。
神のみが人間を救い得るものだと思っていたが、日本の天皇はまさに自分の欲望を一つもお持ちにならないということを発見して、こういう立派な人が天皇である以上、この天皇によって日本国民は救われるであろうと思った。必ずお守りする。」と言わしめ、食糧の緊急援助を行なったのです。

昭和21年の元旦(終戦の翌年)の御製
     ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ
       松ぞををしき 人もかくあれ
      
 戦争により、先祖からの領土を失い、多くの国民の命も奪われ、未曽有の国難に対し、昭和天皇はご退位もお考えになったと言います。しかし、今こそ天皇の責任を考えた時、それは退位することではなく、日本国民を慰め励まし生きる勇氣を与え、復興に立ち上がってもらうことこそが、自分の責任と思われ、昭和21年2月19日を振出しに、日本全国を隈なく歩く、巡幸が始まりました。
 以来、昭和29年8月北海道まで沖縄を除く、46都道府県3万3千キロに及ぶ壮大な旅が行われました。
 しかし、その旅は、ある時は列車の中で、ある時は学校の教室の板の間に泊まり、猛暑の中、厳寒の中、行われました。広島では、7万人の群衆が歓喜の涙を流したと言います。
 
     ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ
       たちなほる見えて うれしかりけり(昭和22年)

 水戸の町では槌の打つ音に、

     たのもしく 夜はあけそめぬ 水戸の町
       うつ槌の音も 高くきこえて   (昭和22年)
 しかし、まだまだ国の状況は良くなりません。又、日本に未だ帰還できない人も多くいます。

   うらうらと かすむ春べに なりぬれと
       山には雪の のこりて寒し (昭和23年)

     国民(くにたみ)と ともにこころを いためつつ
       帰りこぬ人を ただ待ちに待つ(昭和24年)
 
しかし、翌年昭和25年の歌会始めでは、

    もえいづる 春の若草 よろこびの
      いろをたたへて 子らのつむみゆ

と、日本の新世を萌え出づる若草にたとえられ、再建の希望の光が見えかけていることが感じられます。
そして、奈良のご巡幸では、

   古の 奈良の都の をとめごも
    新しき世に はた織りはげむ (昭和26年)
と詠まれ、この年日本の主権が回復されるサンフランシスコ平和条約の調印を寿(ことほ)ぎ、日本の再建を確信された念いが伺いしれます。

   空高く 生ひしげりたる 吉野杉
    世のさま見つつ いく代へぬらむ (昭和26年)

昭和27年4月28日 サンフランシスコ平和条約発動の日、待ちに待った日本の主権が回復した日でした。
    風さゆる み冬は過ぎて まちにまちし
      八重桜咲く 春となりけり  (昭和27年)
   
    国の春と 今こそはなれ 霜こほる
      冬にたへこし 民のちからに (昭和27年)

    (霜まで凍る冬の厳寒に耐えた国民の力によってやっと国の春が来た)

それを機に日本はめざましい経済発展を遂げてゆきます。

    さしのぼる 朝日の光 へだてなく
      世を照らさむぞ わがねがひなる (昭和35年)


 東京オリンピック開催では、
 
    この度の オリンピックに われはただ
      ことなきをしも 祈らむとする (昭和39年)

そして万博、

    きのふより ふりいでし雪 はやはれて
      万国博開会の 時はいたりぬ  (昭和45年)

終戦から占領、日本を覆っていた雪がようやく晴れ、世界の国々と肩を並べるまでになりました。
まさに時は至りぬです。
 そしてその年は昭和天皇70御賀の年でもありました。

   ななそぢを 迎えたりける この朝も
    祈るはただに 国のたひらぎ (昭和45年)

   よろこびも かなしみも 民と共にして
    年はすぎゆき いまはななそぢ (昭和45年)



日本の国柄とはどういうものでしょうか。
わが国は四方を海洋に囲まれ、国土は南北に連なり、豊かな自然に恵まれ、その恵みを八百万の神々に感謝し、自然と共生しつつ、農耕民族として「和の文化」を育み、培った国です。
そして、天皇が国民を我が子のように慈しみ、国民の苦しみを我が苦しみと捉え、国民の安寧を神に祈り、神の御心を以って国民を幸せにし、国民は天皇家からあふれ出る徳を以って、生活の規範とし、天皇と神と国民が一体となって栄えてきた、いや、これからも栄えていく国家なのです。

                      



                                 代表社員 前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 19:30| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月03日

3月の言葉!「昭和天皇の御製」(大正〜終戦まで)

「昭和天皇の御製」(大正〜終戦まで)

 最近和歌にいそしんでいるということを書きましたら、それを見計らったかのように清水英雄先生から一冊の本が贈られてきました。「昭和天皇御製にたどるご生涯」(湊澄美枝 著)(副題 和歌だけに込められたお心)という400ページほどある立派な表装の本でした。
 御製とは天皇の詠まれる和歌のことをいいます。昭和天皇の残された御製から昭和天皇という方を、昭和という時代を、天皇という存在を、和歌の素晴らしさを、教えていただくには充分すぎ余りある内容でした。
天皇の御名で発表される詔書や勅書は実際には天皇御本人の個人的な表現であるはずもなく、まして戦前においては天皇のお言葉を直に国民に伝えるなどということはあり得ないことでした。
 しかし御製だけは誰からの制約もなく天皇のお心そのままに天皇ご自身のお言葉を三十一文字に込められた唯一の表現形態だったのだと思います。
 この和歌は「古事記、日本書紀」にその端を発し平安時代の「古今和歌集」で平仮名表記を主とする倭歌となり漢の国の漢詩に対し倭の国の歌の完成をみます。それ以来時代を超え和歌は天皇にとって《神に祈る》ための主たる表現であり、天皇と神をつなぐ表現方法であったと著者は述べています。いわば天皇の祭祗には必要不可欠なものなのです。

 この本で昭和天皇の登場は大正10年の御製からです。
昭和天皇は明治34年4月29日第123代大正天皇の第1皇子として御誕生されました。
母后は公爵九条通孝第四女の九条節子(サダコ)様です。
大正10年11月25日22歳の若さでご健康に問題のある大正天皇の摂政官にご就任されています。
その時の御製
   世の中も かくあらまほし おだやかに
     朝日にほへる 大海の原                (大正11年)
 いつの世にも常に平和を希求される御心はその当時から脈々と生きつながっています。

   立山の 空に聳(そび)ゆる ををしさに
     ならへとぞ思ふ みよのすがたも            (大正14年)
 
   広き野を ながれゆけども 最上川
     海に入るまで にごらざりけり             (大正15年)
大正14年は福井、石川、富山で大正15年は東北地方で陸軍特別大演習が行われた時の御製だそうです。立山や最上川の風景にご自身の念いで重ね合わせての雄大な叙景詩がつづられています。
   あらたまの 年をむかへて いやますは
     民をあはれむ こころなりけり             (大正13年)
 大正12年の関東大震災が起きた翌年の正月の御製です
そして昭和天皇の御代となり実質的に初めて公となる昭和3年の御製

   山山の 色はあらたに みゆれども
      わがまつりごと いかにかあるらむ             (昭和3年)
 
   ゆめさめて わが世を思ふ あかつきに
      長なきどりの 声ぞきこゆる                (昭和7年)
 自らの統治を思い夜も眠れぬという天皇としての御苦心があふれる御製です

 そして昭和2年金融恐慌、山東出兵、昭和6年満州事変と天皇の御心とは正反対に日本は戦争への道をひた走っていくのです。
   ふる雪に こころきよめて 安らけき
      世をこそいのれ 神のひろまへ               (昭和6年)

   あめつちの 神にぞいのる 朝なぎの
      海のごとくに 波たたぬ世を                (昭和8年)

   静かなる 神のみそのの 朝ぼらけ
      世のありさまも かかれとぞ思う              (昭和13年)

   西ひがし むつみかはして 榮ゆかむ
      世をこそ祈れ としのはじめに               (昭和15年)
 天皇の世界平和への祈りとは裏腹に昭和16年真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まります。

昭和17年ミッドウェー海戦で戦況は一変し、昭和20年3月東京大空襲。8月広島、長崎への原爆投下そして昭和20年8月15日の終戦へと多くの国民のみならず、他国の民の命を奪い去っていく戦争への念いは、いかばかりであったかと心が痛んでなりません。

   峰つづき おほふむら雲 ふく風の
     はやくはらへと ただいのるなり               (昭和17年)   

   つはものは 舟にとりでに をろがまむ
     大海の原に 日はのぼるなり                 (昭和19年)
   
風さむき 霜夜の月に 世をいのる
     ひろまへきよく 梅かをるなり                (昭和20年) 

 峰を覆う黒い雲を風が早く吹き払って欲しい、船上で苦労している兵士たちへの氣づかい、寒き夜に一心に平安を祈る天皇の御姿。
天皇がなしうる最高の祭祗、神への祈りが連日続けられています。
そして終戦のご聖断が下されたのです。
   身はいかに なるともいくさ とどめけり
      ただたふれゆく 民をおもひて   
昭和20年8月15日の御製だそうです。
 8月15日に先立つ8月10日御前会議が開かれました。
防空壕の中、戦争継続を主張する者と終結を主張する者との大論議の末、膠着状態の中で鈴木首相が昭和天皇にご聖断を仰がれました。
 陛下は少し体を乗り出すようにして
「それならば、私の意見を述べよう。私の意見は、外務大臣の意見に同意である」
物音一つ聞こえない防空壕の中である。陛下の声は参列者の胸に突き刺さった。次の瞬間、すすり泣きの声が漏れてきた。やがてすすり泣きは号泣に変わった。暫くして腹の底から絞り出すようなお声で
「念の為に言っておく」と申され
『大東亜戦争が始まってから、陸海軍のしてきたことをみると、どうも予定と結果が大変違う場合が多い。いま、陸軍、海軍では先ほどの大臣、総長が申したように本土決戦の準備をしており、勝つ自信があると申しているが、私はその点について心配している。先日、参謀総長から九十九里浜の防御について話を聞いたが、実は、その後、侍従武官長が現地を見てきての話では、総長の話と大変違っていて、防備は殆どできていないようである。
 このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか。私は非常に心配である。
或いは、日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではないかと思う。私の任務は先祖から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。今日となっては、ひとりでも多くの国民に生き残ってもらい、其の人たちに将来再び立ち上がってもらうほかに日本を子孫に伝える方法はないと思う。このまま戦争を続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。もちろん忠勇なる軍隊の解除や戦争責任の処罰などを思うと実に忍びがたいものがある。私は、明治天皇の三国干渉のときのお心持ちも考え、私のことはどうなってもかまわない。耐え難いこと、忍び難いことではあるが、この戦争をやめる決心をした』
 陛下のお言葉によってポツダム宣言受諾が決まった。時に10日午前2時20分であった。
 10日の午前7時、スイス駐在の加瀬公使からスイスを通じ米、中へ、スエーデン駐在の岡本公使からスエーデンを通じて英、ソ両国に日本政府の意思が伝えられました。


                         
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posted by 前原幸夫 at 16:03| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする