2016年04月04日

4月の言葉!「昭和天皇の戦後」

「昭和天皇の戦後」

昭和20年8月15日ポツダム宣言を受諾して、大東亜戦争は終わりました。
無条件降伏といういまだかつて日本が経験したことのない状況に、天皇は自らの命をかけて国民を守ってゆかれます。
 昭和20年9月27日に食糧難であえぐ日本国民の窮状を救うため、GHQの最高司令官マッカーサーを単身で訪問されています。
マッカーサーがパイプを口にくわえ、昭和天皇と写っている有名な写真の撮られた日です。マッカーサーは昭和天皇が命乞いをしに来ると思い、面談の前にあの写真を撮らせました。しかし、実際に昭和天皇の発せられたお言葉は、
「私は戦争遂行にあたって、政治軍事両面で行なった全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした。」と、今回の戦争の全ての責任は、昭和天皇ご自身にあるとした上で、
「私については、思うままになされて良い。私を絞首刑にしても良い。しかし、私の国民を飢えさせないで欲しい。」
 そう言って、マッカーサーを驚かせただけでなく後日マッカーサーをして、
「人間は所詮、欲にどこまでもつかまっているものであるから、人間が人間を救うことはできない。
神のみが人間を救い得るものだと思っていたが、日本の天皇はまさに自分の欲望を一つもお持ちにならないということを発見して、こういう立派な人が天皇である以上、この天皇によって日本国民は救われるであろうと思った。必ずお守りする。」と言わしめ、食糧の緊急援助を行なったのです。

昭和21年の元旦(終戦の翌年)の御製
     ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ
       松ぞををしき 人もかくあれ
      
 戦争により、先祖からの領土を失い、多くの国民の命も奪われ、未曽有の国難に対し、昭和天皇はご退位もお考えになったと言います。しかし、今こそ天皇の責任を考えた時、それは退位することではなく、日本国民を慰め励まし生きる勇氣を与え、復興に立ち上がってもらうことこそが、自分の責任と思われ、昭和21年2月19日を振出しに、日本全国を隈なく歩く、巡幸が始まりました。
 以来、昭和29年8月北海道まで沖縄を除く、46都道府県3万3千キロに及ぶ壮大な旅が行われました。
 しかし、その旅は、ある時は列車の中で、ある時は学校の教室の板の間に泊まり、猛暑の中、厳寒の中、行われました。広島では、7万人の群衆が歓喜の涙を流したと言います。
 
     ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ
       たちなほる見えて うれしかりけり(昭和22年)

 水戸の町では槌の打つ音に、

     たのもしく 夜はあけそめぬ 水戸の町
       うつ槌の音も 高くきこえて   (昭和22年)
 しかし、まだまだ国の状況は良くなりません。又、日本に未だ帰還できない人も多くいます。

   うらうらと かすむ春べに なりぬれと
       山には雪の のこりて寒し (昭和23年)

     国民(くにたみ)と ともにこころを いためつつ
       帰りこぬ人を ただ待ちに待つ(昭和24年)
 
しかし、翌年昭和25年の歌会始めでは、

    もえいづる 春の若草 よろこびの
      いろをたたへて 子らのつむみゆ

と、日本の新世を萌え出づる若草にたとえられ、再建の希望の光が見えかけていることが感じられます。
そして、奈良のご巡幸では、

   古の 奈良の都の をとめごも
    新しき世に はた織りはげむ (昭和26年)
と詠まれ、この年日本の主権が回復されるサンフランシスコ平和条約の調印を寿(ことほ)ぎ、日本の再建を確信された念いが伺いしれます。

   空高く 生ひしげりたる 吉野杉
    世のさま見つつ いく代へぬらむ (昭和26年)

昭和27年4月28日 サンフランシスコ平和条約発動の日、待ちに待った日本の主権が回復した日でした。
    風さゆる み冬は過ぎて まちにまちし
      八重桜咲く 春となりけり  (昭和27年)
   
    国の春と 今こそはなれ 霜こほる
      冬にたへこし 民のちからに (昭和27年)

    (霜まで凍る冬の厳寒に耐えた国民の力によってやっと国の春が来た)

それを機に日本はめざましい経済発展を遂げてゆきます。

    さしのぼる 朝日の光 へだてなく
      世を照らさむぞ わがねがひなる (昭和35年)


 東京オリンピック開催では、
 
    この度の オリンピックに われはただ
      ことなきをしも 祈らむとする (昭和39年)

そして万博、

    きのふより ふりいでし雪 はやはれて
      万国博開会の 時はいたりぬ  (昭和45年)

終戦から占領、日本を覆っていた雪がようやく晴れ、世界の国々と肩を並べるまでになりました。
まさに時は至りぬです。
 そしてその年は昭和天皇70御賀の年でもありました。

   ななそぢを 迎えたりける この朝も
    祈るはただに 国のたひらぎ (昭和45年)

   よろこびも かなしみも 民と共にして
    年はすぎゆき いまはななそぢ (昭和45年)



日本の国柄とはどういうものでしょうか。
わが国は四方を海洋に囲まれ、国土は南北に連なり、豊かな自然に恵まれ、その恵みを八百万の神々に感謝し、自然と共生しつつ、農耕民族として「和の文化」を育み、培った国です。
そして、天皇が国民を我が子のように慈しみ、国民の苦しみを我が苦しみと捉え、国民の安寧を神に祈り、神の御心を以って国民を幸せにし、国民は天皇家からあふれ出る徳を以って、生活の規範とし、天皇と神と国民が一体となって栄えてきた、いや、これからも栄えていく国家なのです。

                      



                                 代表社員 前原 幸夫
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2016年03月03日

3月の言葉!「昭和天皇の御製」(大正〜終戦まで)

「昭和天皇の御製」(大正〜終戦まで)

 最近和歌にいそしんでいるということを書きましたら、それを見計らったかのように清水英雄先生から一冊の本が贈られてきました。「昭和天皇御製にたどるご生涯」(湊澄美枝 著)(副題 和歌だけに込められたお心)という400ページほどある立派な表装の本でした。
 御製とは天皇の詠まれる和歌のことをいいます。昭和天皇の残された御製から昭和天皇という方を、昭和という時代を、天皇という存在を、和歌の素晴らしさを、教えていただくには充分すぎ余りある内容でした。
天皇の御名で発表される詔書や勅書は実際には天皇御本人の個人的な表現であるはずもなく、まして戦前においては天皇のお言葉を直に国民に伝えるなどということはあり得ないことでした。
 しかし御製だけは誰からの制約もなく天皇のお心そのままに天皇ご自身のお言葉を三十一文字に込められた唯一の表現形態だったのだと思います。
 この和歌は「古事記、日本書紀」にその端を発し平安時代の「古今和歌集」で平仮名表記を主とする倭歌となり漢の国の漢詩に対し倭の国の歌の完成をみます。それ以来時代を超え和歌は天皇にとって《神に祈る》ための主たる表現であり、天皇と神をつなぐ表現方法であったと著者は述べています。いわば天皇の祭祗には必要不可欠なものなのです。

 この本で昭和天皇の登場は大正10年の御製からです。
昭和天皇は明治34年4月29日第123代大正天皇の第1皇子として御誕生されました。
母后は公爵九条通孝第四女の九条節子(サダコ)様です。
大正10年11月25日22歳の若さでご健康に問題のある大正天皇の摂政官にご就任されています。
その時の御製
   世の中も かくあらまほし おだやかに
     朝日にほへる 大海の原                (大正11年)
 いつの世にも常に平和を希求される御心はその当時から脈々と生きつながっています。

   立山の 空に聳(そび)ゆる ををしさに
     ならへとぞ思ふ みよのすがたも            (大正14年)
 
   広き野を ながれゆけども 最上川
     海に入るまで にごらざりけり             (大正15年)
大正14年は福井、石川、富山で大正15年は東北地方で陸軍特別大演習が行われた時の御製だそうです。立山や最上川の風景にご自身の念いで重ね合わせての雄大な叙景詩がつづられています。
   あらたまの 年をむかへて いやますは
     民をあはれむ こころなりけり             (大正13年)
 大正12年の関東大震災が起きた翌年の正月の御製です
そして昭和天皇の御代となり実質的に初めて公となる昭和3年の御製

   山山の 色はあらたに みゆれども
      わがまつりごと いかにかあるらむ             (昭和3年)
 
   ゆめさめて わが世を思ふ あかつきに
      長なきどりの 声ぞきこゆる                (昭和7年)
 自らの統治を思い夜も眠れぬという天皇としての御苦心があふれる御製です

 そして昭和2年金融恐慌、山東出兵、昭和6年満州事変と天皇の御心とは正反対に日本は戦争への道をひた走っていくのです。
   ふる雪に こころきよめて 安らけき
      世をこそいのれ 神のひろまへ               (昭和6年)

   あめつちの 神にぞいのる 朝なぎの
      海のごとくに 波たたぬ世を                (昭和8年)

   静かなる 神のみそのの 朝ぼらけ
      世のありさまも かかれとぞ思う              (昭和13年)

   西ひがし むつみかはして 榮ゆかむ
      世をこそ祈れ としのはじめに               (昭和15年)
 天皇の世界平和への祈りとは裏腹に昭和16年真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まります。

昭和17年ミッドウェー海戦で戦況は一変し、昭和20年3月東京大空襲。8月広島、長崎への原爆投下そして昭和20年8月15日の終戦へと多くの国民のみならず、他国の民の命を奪い去っていく戦争への念いは、いかばかりであったかと心が痛んでなりません。

   峰つづき おほふむら雲 ふく風の
     はやくはらへと ただいのるなり               (昭和17年)   

   つはものは 舟にとりでに をろがまむ
     大海の原に 日はのぼるなり                 (昭和19年)
   
風さむき 霜夜の月に 世をいのる
     ひろまへきよく 梅かをるなり                (昭和20年) 

 峰を覆う黒い雲を風が早く吹き払って欲しい、船上で苦労している兵士たちへの氣づかい、寒き夜に一心に平安を祈る天皇の御姿。
天皇がなしうる最高の祭祗、神への祈りが連日続けられています。
そして終戦のご聖断が下されたのです。
   身はいかに なるともいくさ とどめけり
      ただたふれゆく 民をおもひて   
昭和20年8月15日の御製だそうです。
 8月15日に先立つ8月10日御前会議が開かれました。
防空壕の中、戦争継続を主張する者と終結を主張する者との大論議の末、膠着状態の中で鈴木首相が昭和天皇にご聖断を仰がれました。
 陛下は少し体を乗り出すようにして
「それならば、私の意見を述べよう。私の意見は、外務大臣の意見に同意である」
物音一つ聞こえない防空壕の中である。陛下の声は参列者の胸に突き刺さった。次の瞬間、すすり泣きの声が漏れてきた。やがてすすり泣きは号泣に変わった。暫くして腹の底から絞り出すようなお声で
「念の為に言っておく」と申され
『大東亜戦争が始まってから、陸海軍のしてきたことをみると、どうも予定と結果が大変違う場合が多い。いま、陸軍、海軍では先ほどの大臣、総長が申したように本土決戦の準備をしており、勝つ自信があると申しているが、私はその点について心配している。先日、参謀総長から九十九里浜の防御について話を聞いたが、実は、その後、侍従武官長が現地を見てきての話では、総長の話と大変違っていて、防備は殆どできていないようである。
 このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか。私は非常に心配である。
或いは、日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではないかと思う。私の任務は先祖から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。今日となっては、ひとりでも多くの国民に生き残ってもらい、其の人たちに将来再び立ち上がってもらうほかに日本を子孫に伝える方法はないと思う。このまま戦争を続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。もちろん忠勇なる軍隊の解除や戦争責任の処罰などを思うと実に忍びがたいものがある。私は、明治天皇の三国干渉のときのお心持ちも考え、私のことはどうなってもかまわない。耐え難いこと、忍び難いことではあるが、この戦争をやめる決心をした』
 陛下のお言葉によってポツダム宣言受諾が決まった。時に10日午前2時20分であった。
 10日の午前7時、スイス駐在の加瀬公使からスイスを通じ米、中へ、スエーデン駐在の岡本公使からスエーデンを通じて英、ソ両国に日本政府の意思が伝えられました。


                         
         bg.gifbg.gifbg.gifbg.gif岡山県内の東日本大震災の影響について岡山県内の東日本大震災の影響についてbg.gifbg.gifbg.gifbg.gifbg.gifbg.gifbg.gifbg.gif                         代表社員 前原 幸夫
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2016年02月08日

2月の言葉!「歌をすすめる言葉」

「歌をすすめる言葉」

 最近、少しではありますが、短歌を作っています。今年に入ってから、一日一首を心がけ、毎日なにかを詠んでいます。二、三ご紹介してみます。

 初孫の七五三の時のことです。

    七五三 孫の節目を寿げば 娘を育てし 妻に感謝す
  
    耳順超え 我が身の生命 引きかえに 孫の生命の 永きを願う


 年末、高速道路で愛車がパンクした時のことです。

    高速で パンクの愛車の そばに立ち 我おちつけと 深く息せん

 これも年末妻と二人で外食をした時です。
 
    高層のフランス料理に赤ワイン 夜景に酔いて 赤らむきみは

 
 短歌にはいろいろの効用がありますが、一般社団法人倫理研究所 創始者 丸山敏雄は歌をすすめる言葉としてこういっています。

 「個性の発揚 生活の浄化には種々の道があるであろう。ここにわれらは、短歌を得た。短歌はわれらの祖先が、最初に築きあげた芸術であり、今日残されて居る初期のものでも、すばらしい高さに達している。しかも永い伝統に生きつづけているだけでなく、今なお若々しい成長をみせている。文学の形式として、このような長い生命をもっているものは、外にはないといわれる。実に我が国はえぬきの、また独得の平明簡素な詩形である。
 第一、歌は簡単である。一冊のノート、一本鉛筆があれば、足りるともいえる。
 手仕事をしつつ、道を歩きつつ、歌ができる。乗物を待つ間、人を待つ間など、歌を考えるによい時間である。歌に親しみはじめると、いたずらに時を費やすということが無くなる。嬉しいこと、悲しいこと、憂い、なやみ、不平など、ひとつとして歌の種ならざるはない。
 こうして対象を見つめ、環境を凝視することは、やがて宇宙の真にせまることであり、おのれを諦観*(ていかん)し、自己に沈潜することは、そのまま無明*の掃蕩(そうとう)であり、自性*の開発である。歌を詠むことは、自ずからにして、うれしい自己反省であり、快き鍛錬であり、不知(しらず)不識(しらず)の向上である。
 歌をつくりはじめると、自然に、いろいろの知識を得てくる。道理をわきまえてくる。人情に通じてくる。 しかし、こんなことは、副産物に過ぎぬ。ほんとうに有難いと思うことは、悲しみがたちまち転じて喜びとなり、怒りはそのまま笑いとなり、憎悪は愛情に、恐怖は親愛に、渋柿(じゅくし)が甘い甘い熟柿に変るように、人生苦のことごとくは、歌によって、そのまま愉悦歓喜の泉となる。
 歌詠みにとっては、人生万事、赫奕*(かくやく)とし、輝きわたる楽土となる。善悪美醜を超え、喜怒哀楽を絶した、まことの美の境に転ずる。
 契沖*(けいおき)は「天下の治乱と和歌の興廃、ともに運を等しくすると見えたり」といった。これはそのまま、おのれの内面生活に移さるべきもので、歌を詠むことは、心の平らぎ、実践の緊張と深さを等しくする。
 春も秋も年中、歌はわれらが友である。歌をつくることは楽しい。出来たときはうれしい。後日に見ると、一入(ひとしお)なつかしい。歌はわがいとしい子である。
 他人の歌をよむと心がなごむ。よい歌には頭が下がる。古人の名歌にあうと、身も心も清まり、高鳴る。歌はわれらが師である。」
  
   *諦観 タイカンとも発音する。はっきり見ること。こまかに見、悟ること。
   *無明 執着やよこしまな見方のため、真理や法則などにくらいこと。
   *自性 もともと持っているすぐれた本性。
   *赫奕 あかるく光のかがやくさま。 
   *契沖 大阪に住した僧侶。歌人でもあり、歴史的仮名遣を提唱した功績は大きい。

 と、人生、毎日毎日喜怒哀楽、そして春夏秋冬、夜が明け、日が昇り、又日が沈む。晴れの日もあれば雨、そして最近のような寒波大雪の日もある。しかし、これを卓観し、心を空にして、その真の姿を見て歌を詠む。そうすれば全てのことが愉悦歓喜となると説いています。私たちは毎日毎日あくせくし、目の前のことを追いかけています。少し立ち止まって目を遠くにやり、別の世界を見てみることにより、目の前の世界を別な角度で捉えることができるのではないでしょうか。私も、富士山に登ったことがあります。登っている時は岩場もあり、急斜面もあり、赤茶けた土、黒い土、決して美しいものではありません。空氣もうすく、決して楽なものではありません。
 しかし、登山を終え、河口湖畔のホテルから眺める富士山は雄大で美しくすばらしい姿を見せてくれます。こんな美しい山に登っていたのかと、感動さえ覚えます。
 人生もそんなものではないでしょうか。
 日々、目の前には難問奇問、さまざまな問題が起こってきます。こんなことは起こって欲しくない。早くこんな災難から逃れたい。しかし、現実は次から次へと身の周りに起こって来ます。あたかも富士山を登っていると同じような苦しみが。
 しかし、その人生も少し外から見てみると、少し離れてみると何と素晴らしい事か、なんと素晴らしい人生かと、思わざるを得ません。
 両親先祖の愛、自然の豊かな恵み、妻や子の献身的な支え、友人、知人との和やかな語らい、生まれて死ぬまで、何と美しく豊かで充実した人生かと、遠くにある富士山が美しく素晴らしい姿をしていることに氣付かされるように。
 この少し離れること、自らを空にすること、少し止まって人生を見ること、これが、短歌を作るときの心境です。日常なんでもないことを、日常の喜怒哀楽を、日常様々な出来事を、少し離れて三十一文字に託してみる。日常の非日常化かもしれません。
 より豊かな人生のために、一日一首、少し止まってみてはいかがでしょうか。
 最後に震災の東北を読んだ歌三首と、新年の三首をご披露します。


 なみ(津波)受けし 建家の姿なかりしが 強き国土に もと(基礎)はとどめん 

 復興の 槌音はなしトラックの けむりにくもる 流された街

 空の青 海の青さが目にしみる ひときわ目立つ みちのくの土

 新年に 生かされている ありがたさ 生き抜く力に 変えて生き切る
 
 初春の デパート孫の 手をひいて 歩く姿に 少し恥じらう

 朝五時の 護国の森の 燈明は 今年一年 明るく照らす



                          代表社員 前原 幸夫
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2016年01月05日

1月の言葉!あけましておめでとうございます

 皆様には、平成28年の幕明けをお健やかにお迎えのこととお慶び申し上げます。
 昨年は、日本にとりましては戦後70年、私どもにおきましては創業30年という節目の年でした。しかも昭和25年生まれの方が65才になり、2025年、あと10年もすればその方々は、75才。いわいる団塊の世代といわれる方々が、後期高齢者の仲間入りをしてゆきます。   
 2025年問題です。労働力が減少し、公的な援助(年金、介護、健保、生活保護)に頼る方々の割合が確実に上昇する一方、消費税10%、円高による輸入品の高騰、インフレ政策による物価高は、いよいよこれから私達の生活に襲いかかってきます。
 現役世代の収入は、少しは増えるかもしれませんが、それもこの物価高で帳消しになってしまうでしょうし、何より将来への不安から、収入増が即消費へ廻るこということは、考えづらい時代になっています。
 更に、私を含む高齢者はもっと深刻です。一方で長寿社会という素晴らしい時代に生きながら、年金は減り、負担は増え、その将来に対する不安感は現役世代を凌ぐものがあります。   
 一億総不安社会、一億総しみったれ社会かもしれません。
 いきおい、財布の紐は固くなり、消費者の購買行動も二極化してゆきます。
 一つは安い物を選んで買う層、もう一つは高い物を少量買う層です。財布の中身の多少に拘らず、支出の絶対額を抑えようとする意識は一緒なのですが、行動は真逆になります。
 さて、皆様はどちらの層、市場をターゲットにされますか。もちろん、大量生産、大量販売で価格競争に勝つと自信のある方は、「安売り王」という道を選ばれるでしょうが、所詮、大企業には勝てません。価格では大企業には及びません。
 だとしたら道は一つ。高い商品、サービス(安くない商品、サービス)を売るということです。今の商品、サービスにもう一つ、もう一ひねり、もう一工夫、もうひと願晴りし、付加価値を上げることです。今の商品、サービスにもう一つ何かを付加することで、高くても売れる商品、サービスに仕上げる、磨き上げることです。
 それは「人」です。何を買うかではなく、誰から買うのか。何をしてもらうかではなく、誰にしてもらうのか。 
 徹底した人的資源の差別化が、これからの時代、中小企業の生命線になります。
 しかも、その人的資源の中で一番の財産は経営者、社長のあなたです。
 経営者の人間力、人間性、人格を磨いてゆくことです。これ以上磨けない、磨くのが嫌なら、経営者を代わるべきです。
 経営者が自らの人間力を高め、社員の手本となり、お客様のコーチ役になることです。売り手と買い手という関係から、先生と生徒という関係の構築です。
経営者は人一倍仕事熱心です。朝から晩まで働き、商品知識、サービスの知識は十二分です。それにもう一つ、人間力が備われば鬼に金棒です。その為には、不平不満、愚痴、不安、恐れ、怒り、心配・・・等々の雑念を捨て切ることです。
 これから東京オリンピックまでの5年間、世の中は今以上に大きく変わってゆきます。
 幾度となく困った事、嫌な事、悩む事が押し寄せてきます。分かれ道の連続です。
 大きな決断、小さな決断を次から次へと行なってゆかねばなりません。
 その時、どんなことが起ころうと、どんな場面に出くわそうと、どんな難局になろうと、全て起こるべくして起こっている。自らを成長進歩させるためにあると確信し、喜んで、感謝して、逃げずに全てを受け入れ、全てに向ってゆくことです。
 その時、必ず道は開け、自分も成長してゆきます。その姿に皆が尊敬さえすることでしょう。
 私は毎朝、目が覚めると東の空に向かい、手を合わせます。どんな天氣であっても、暗くて外がどんな状態か見えなくとも、「あぁ、今日もいい天氣でありがとうございます。」と、心でつぶやきます。雨が降ろうと、カンカン照りであろうと、雪の日であろうと、台風の日であろうと、すべて良い天氣です。天候に関係なく「いい天氣だ」と受け止めれば、出かけてゆくのが楽しくなります。
 朝の一瞬の心の持ち方で一日のスタートが違ってきます。いや、一日が違ってきます。
 一日一日が違えば、人生そのものが違って来ます。
 全てを喜んで、感謝して、受け入れるよう心を鍛錬することで、どんな難局にも耐えられるいや、喜んで難局に向える経営者が形づくられてゆきます。喜んで向かえば、打つ手は無限となります。心の鍛錬が強靭な経営者を創り、人間性豊かな人間力に満ちた人格高き経営者を生み出します。そして、その経営者の魅力が人を引き寄せ、物を引き寄せます。物やサービスを売るのではなく人を売る。そんな時代になりそうです。
 今年も厳しい時代に変りはありません。私ども、税理士法人久遠グループもその変化に対応すべく30周年を機に組織を大幅に変えました。
 個々の力ではなく、組織力でお客様に対応し、ご満足をいただけるよう更なる努力、精進を重ねて参る所存でございます。
 今年一年、よろしくお願い申し上げます。
    
                                     平成28年 元旦 
                                    代表社員 前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 15:39| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月01日

12月の言葉!「被災地巡行 12月の言葉!「被災地巡行」

「被災地巡行」

 11月13〜15日、3.11の震災後初めて、被災地を訪れました。
 4年半、物見遊山では失礼に当たるし、ボランティアは少し荷が重いし、なかなか訪ねる機会がなかったのですが、今回、福田茂夫先生の主催する会計人の勉強会が女川で開催されたのをきっかけに行く事が出来ました。

 仙台空港から1時間半、女川の旅館華夕美に到着しました。この旅館、何と女川の海辺にあって、津波の被害に遭わなかったという旅館です。女川は二十数メートルという津波で一瞬のうちに街全体が流されたのですが、この旅館の立地は、目の前に袋状の湾があり、この地形のおかげ様で、奇跡的に津波の被害に遭わなかったものと思われます。
 静かにキラキラ輝いているこの海が、あの津波となって人を襲って来たなど想像もつきませんが、街の高台に上り復興しつつある街並みを見ると、その被害の大きさに驚かされました。その高台で、旅館のおかみさんが当時の事を色々話してくれました。その旅館は流されなかったため、電気や水道は通ってなくても、近所の方々約100名が数か月間、寝泊りに来られていたということでした。
 その中の何人かは夜寝ていてもうなされていたといいます。それは夜眠りにつくと、自分がしがみついている電信柱や高台の横を人が流されてゆく光景が蘇ってくるからだといいます。自分の横で津波に流され、自分だけ助かったという申し訳なさもあるようです。
 
 翌日は、勉強会を早退し、レンタカーを借りて氣仙沼へ行きました。
 今年の4月、氣仙沼であさひ鮨という鮨屋さんを営む村上力男さんと出会い、意氣投合し、必ず氣仙沼に行きますという約束をしており、丁度女川行きがその約束を果たせるいい行程になっていたからです。
 村上さんも当然津波に遭い、鮨屋は流され、今も仮設店舗の営業ということで慰問を兼ね、おいしい三陸のものをいただこうという算段でした。
 
 女川から石巻へ引き返し、石巻でレンタカーを借り、9時出発、氣仙沼に向う道は高速道路もあるのですが、あえて海岸沿い一般道をひた走りました。
 一番驚くのはダンプカー、トラックの多さです。その日は土曜日だったので、普通の日よりも少ないのでしょうが、それでもすごい量です。至る所工事中。何か砂漠に道路を作っているという感じで、公共工事のオンパレードでした。
 仮設住宅も点在し、もう引っ越しているのかと注意深く見ると、洗濯物がかかっている家が多く、まだここにお住まいなんだという氣配がしていました。
 新築の住宅も石巻などにはありましたが、北上すればするほど、そんな建物はなく、まだまだ復興にはほど遠いという感じを受けました。途中、見覚えのある建物に出くわしました。
 ナビを見ると何と南三陸町。「あ、あれが・・・」と一瞬息をのみました。
 あの南三陸町の防災庁舎の跡でした。3階建の鉄骨の骨組だけを残し、無残に立っていました。3階建の庁舎屋上を2mも上回るとんでもない津波に襲われた残骸でした。そして町民に高台に避難するよう最後まで、マイクを離さなかった24才の女性職員、遠藤未希さんが最期に居た建物です。遠藤さんのマイクの警報を聞き、高台に難を逃れた人は多かったといいます。「年寄りは生き残り、若い人は逝ってしまった」と悔しがったといいます。車を停め、しばし手を合わせ南三陸町を後にしました。
 
 そこから約2時間、氣仙沼へは昼過ぎに到着。車であちこち街並みを拝見すると、又驚きがありました。女川や南三陸町では震災に遭った建物はほとんど撤去され、土がうず高く積まれ、いつでも整地可能という状態でしたが、氣仙沼はまだいたる所に被災した建物が建っており、道路が少し整備されつつあるという感じで、まだまだ復興にはほど遠いという感じを受けました。
 その裏には、防潮堤の問題があるとタクシーの運転手さんが話してくれました。
国の計画によれば、太平洋側の東北の海岸線に長さ400K(東京〜大阪間の距離)総工費1兆円の巨大なコンクリートの壁を作ろうというもの。当初高さは8Mにもなるということだったそうですが、住民の反対が強く氣仙沼ではその防潮堤設置そのものへの反対の声があり、その高さによって街並みが変わるということで整地等が全くといっていいほど進んでいないということでした。

 夕方5時になるともう真っ暗です。村上さんの仮設店舗へ出かけました。
 仮設住宅のようなものが何棟も立ち、商店街のような一角があり、その中にあさひ鮨はありました。外は仮設ですが、中に入るとすしカウンターも立派だし、腰をかけて上を見ると、欄間のようなものがあり、尋ねると被災した店舗にあったものを運よく見つけ持ってきたのだそうです。ほどなくし、村上さんも出社、久しぶりの再会とおいしい三陸の幸を堪能いたしました。

 夜も更け、外は冷たい雨になりました。三陸に春はまだ遠いと感じ、我々ももっと暖かい風を贈り続けなければと痛感させられました。

     A使用画像.jpg      代表社員 前原 幸夫
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2015年11月01日

11月の言葉!「再びゴルフ」

「再びゴルフ」

6年半前、ある事情でゴルフ断ちをしていました。今年6月、60周年を迎えるお客様がおられ、50周年の時もゴルフ大会に参加させていただいたので、もうそろそろゴルフ断ちもいいかと思い、4月に道具を一式新調しました。
何せ6年前、よく氣がきく我が女房は、ゴルフクラブはもちろんウェアー、ズボンに至るまで、何かゴルフは邪氣があるといわんばかりに捨ててしまっていたからです。
真新しいゴルフクラブにゴルフバック、ゴルフシューズと買い揃え、いざ5月の連休に練習そして本番と思いきや、痛風の発作。3年前は右足の親指の付け根でしたが、今回は何とかかと。
かかとが痛いのはつらい!! 立ち上がる時、歩く時、いかにかかとが大切か。
夜、トイレに行く時、私は2階に寝ていますので、階段を降りるのが一苦労。お尻を床に着け、一段一段降りる始末。一旦降りるともう階段は上れません。幸いあたたかな夜でしたので、一人居間へゴロ寝。女房が心配して見に来るほどでした。そんな痛風も8月に入ると和らぎましたが、今度は酷暑。わざわざこんな暑い時期に始めなくてもと自分に言い訳しながら、涼しい時期の到来を待ちました。

そして、10月22日、もう25年来親交のある名古屋樟ライオンズクラブとの懇親コンペが福岡の名門芥屋カントリーで行われることとなりました。
10月22日に照準を定め、10月に入り、買ってまだ一度も使ったことのないクラブを持って、打ちっぱなし場へ日参。
運がいいことにゴルフ練習場は我が家に帰る途中にあり、スーツのまま約100球、4~5回の練習ができました。最初は右に左にボールよりも地面をたたくは、ボールの頭をたたくは、周りの人の後ろ姿が笑っているように思えるほどでした。手の親指の皮は水ぶくれになり、むけてしまうそんな日々でした。

10月22日当日はまさに晴天。玄界灘のすぐそばにあり、8月にはオーガスタトーナメントを終えたばかりのコースはすばらしいものでした。
スタート1時間前に到着。さっそく着替、パターの練習場へ一目散。何せドライバーとかの練習はやりましたが、パターは全く練習せず、当日がパターの使い始めで、ボールを練習場のグリーンに置き、軽く合わせます。さわやかな音とともに、緑の絨毯を白球がカップに吸い込まれると思いきや、カップとは程遠い所で止まりました。しかし、本当に氣持ち良かったです。
ほぼ40分間一心不乱にパターの練習を行ないスタート。INの10番へ、1人ドタキャンで3人でエントリー。しかも2人は70才以上ですから、前から打ちます。この2人若い頃はシングルだったのですが、病氣されたり、年を取られたりであまり大きな声では言えませんが、昔の面影はありませんでした。
2人が前からですから、私が常にオナー、最初に打ちます。6年ぶりのドライバー、少し右目でしたがOB にはならず、なんと出だしは5のボギー。ハーフの最終、18番のロングはパーの5、トータル54。
昼は1時間待ちということで大宴会でした。後半海沿いのアウトコースで風は強かったのですが、上ってみると52、トータル106でした。OBも1球でした。ボールが幾つなくなるかと思いゴルフバックには20個のボールを押し込んで行きましたが、それも徒労に終りました。なれないパターもまずまずでした。夕暮れのさわやかな海風にホッとして18ホールを上って来れました。

 自分で言うのもなんですが、6年前よりいい感じがありました。もちろん、スコアはもう少し良かったですが、弾道とか飛距離は今回の方が良かったと思います。
 腕かと思ったのですが、どうも道具のおかげ様のようです。ゴルフクラブの進化が私の腕をカバーしてくれたようです。
何せ飛距離が全然違います。6年前は9番アイアンで125ヤードでしたが、今回は、140ヤードです。左右へのブレもあまりなかったですし、やはりクラブが良くなっています。ドライバーのヘッドの大きさなど、6年前の私のドライバーと比べものになりません。
 ヘッドが大きい分、必ずどこかに当たります。当たればそこそこには飛びます。
本当に進歩したものです。
11月7日には、小学校の同級生とコンペです。6年間ご無沙していた分、これからの余生の楽しみを1つ増やしたいと思います。 
 又、ホールインワンでもしたらご報告します。
 楽しみにしておいて下さい。

                        代表社員 前原 幸夫
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2015年09月30日

10月の言葉!「公助、共助、互助、自助」

「公助、共助、互助、自助」

 酷暑が過ぎ、空には満月が美しく、野には彼岸花が咲き、夜長に虫の音が耳に心地よく、とんぼがゆらゆらと宙を舞うそんな秋になりました。
 私の住む岡山市北区玉柏は、私の生まれ故郷であり、今もなお昔の面影を残すところです。岡山駅から県道吉井線で北へ約10キロ。金山や笠井山を背にし、前には旭川の流れがあり、その山川にはさまれた田園地帯にあります。
 生まれてから、18〜27才までは、東京暮らしでしたが、人生60年の内のほとんどをこの地で過ごしています。今日9月27日(日)は、岡山市内一斉清掃の日であり、我が町内も皆、総出で道端の草むしりや清掃を行ないました。秋祭りが、翌々週にあるため、昔からやっていた行事です。

 子供の頃、行事と言えば、春は花見、夏は水神様、秋はお祭り、奉納相撲、冬は畑讃談と、四季折々に合せ自然や神仏との関わり、感謝を子供の頃から無意識の内に、植えつけてゆく慣わしがありました。
 春の花見は、子供たちが裏山に数カ所竹で陣地をつくり、野山をかけめぐり、戦の模擬のようなもの(サバイバルゲーム)で、昼にはおにぎりをほおばり、年長者は年下をかばい合いながら、かなり本格的にチャンバラをし合うというものでした。
 夏の水神様は、お寺の境内に小屋を作り、そこで1日共同生活をし、川で泳いだり、一緒に食事をするというものです。秋の祭りは、これは今でも行われていますが、だんじりを引き、そしてお宮の境内で奉納相撲を行なうものです。大人たちの作ってくれた土俵に赤白のふんどしを締めて小1〜小6まで、私達の頃には大勢の豆力士でしたが、今はソフトボールやサッカー大会が休みに重なり、4〜5人の参加者で、しかも、ふんどしは半パンの上から締め、上にも半袖のシャツを着ての相撲で我々の頃とはだいぶ様変わりしています。
 冬の畑讃談は、今は子供会のクリスマス会になっていますが、私達の頃は町内のお宅を借り、そこにみんな集まって1日共同生活をするというものでした。
 このように、春には陽光の下で野山をめぐり、春のおとずれに感謝し、夏は川遊びを中心に、水への感謝を知り、秋は神への奉納相撲で、豊かな実りを祈り、冬には収穫されたものを一緒にいただき、田畑の実りに感謝するというように四季への感謝を行事に表わし、子供たちに体感させるという昔の人の知恵があったのだと思います。
 もう50年前になりますが、私もこういう行事を通して友人との助け合い、先輩後輩との上下関係、地域の絆の強さ、神仏への祈り、田畑や山川の自然のありがたさ、畏敬の念、こういうものが培われたのだと思います。
 
 今から10年程前、町内の長老が3人私の家にやってきて、何事かと思えば、なんと町内会長をやってくれという依頼でした。丁度、岡山市が電子町内会というものを推奨し、町内会をメールやインターネットでつなげ、町内の各家々、又、町内と岡山市をネットでつなごうという試みを始めた時期でした。
 急なことでしたが、前述のように、町内へのご恩を感じておりましたし、皆様方の助力を条件にお引き受けしました。そして、最初にやったのが、県道吉井線の草刈りでした。
それまでは、旭川の堤防が道路であり、片道一車線だったのが、朝のラッシュ時大渋滞が起きており、この解消に、片道二車線にする拡幅工事が終了した頃で、立派な道路が町内の南側に造られました。
 しかし、片道一車線の頃は、道路ののり面は両サイドとも草刈りをしてくれていたのが、片道二車線になった途端、旭川に面している側は草刈りをするが、町内に面している方は出来ないということになりました。
理由を聞けば、片道一車線は道路でなく、堤防とみなされ、堤防の管理は国土交通省なので予算も十分あり、両サイドを刈っていたのが、片道二車線になれば、堤防ではなく道路として取り扱うため、旭川に面した方は国交省管理、町内に面している方は県道
なので、県管理(今は政令指定都市になりましたので岡山市)になり、県管理になると予算上全部は刈れず、県道通行に支障のない程度、具体的には道路面から1mのみ草を刈るということでした。
 実際、県は上部1mのみ刈り、あとはそのままでした。県道から町内に降りてくるロータリーは県管理ではないので、伸び放題という有り様でした。
雑草が生い茂る姿は見苦しいということで、町内で草刈り隊を結成し、自主的にやろうということになりました。最初は役員4〜5人でやっていましたが、今は30人ぐらいの方が自発的に出て下さり、年3回程行うようになりました。何しろかなり斜度のキツイのり面ですから、危険もあるし、体力もかなり必要で、皆様の協力に感謝しています。
 
 それにしても、行政のつれなさ。杓子定規な取り扱いには腹を立てながら、一方で町内の意思疎通が良くなり、ボランティア精神の養成には非常に良いイベントになっています。
 久しぶりに会う先輩、同級生、町内の人々と昔話に花を咲かせ、肉体労働をする。
そして、終わった後の爽快感は何物にも代えられません。少子高齢化が進み、公の予算がどんどん削られてゆく中、自助努力(自分1人や自分の家族の力)だけでは、充分な社会生活は営めません。地域での共助、隣人との互助が必要不可欠となってきます。  
公助から地域の共助、住民の互助、そして自助。このバランスが大切になります。
 是非、地域の町内会の隣組の絆をもっともっと深め、より豊かな老後が送れるような社会を作ってゆく必要があります。
 結局“人のために”が、“自分のため”になるのだと信じて。
                           

                            代表社員 前原 幸夫
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2015年09月01日

9月の言葉!「男は男、女は女」

「男は男、女は女」

 八月が終わろうとしている今、私は年老いた母のために晩御飯を作っています。
 お風呂の掃除をし、台所の片付けをし、味噌汁を作って仕事に出かけます。
 女房に逃げられた訳ではありません。出雲にいる長女が4日間程、福岡へ出張しなければならず、その間、1歳の孫を妻が面倒を見る事になったからです。
 
 大量のサトウのごはんや、レトルト食品を冷蔵庫に買い込んで、妻は8月25日に台風の中出発しました。残されたのは、85歳ヨボヨボの母と初老の私。元来、料理は好きな方ですが、いざ毎日となると氣が進まないものの、仕事もそこそこに切り上げ、夕げの支度です。掃除や片付けも嫌いな方ではありませんが、これも毎日となると何か億劫になってきます。
 趣味でゴルフをやれば楽しいけれど、それが職業になると辛く感じるように、家事もそうなんでしょうか。今更ながら、我が妻の有り難さを痛感させられています。
 
 だいぶ前ですが、「話を聞かない男、地図が読めない女」という本を読んだことがあります。
 男と女の特性がよく書かれており、特に、私と妻にピッタリという内容でした。男と女の性差は、はるか昔からの行動様式、役割の違いからくるものだということです。 男は外に出て狩りをし、女は家にいて子育て家事をしてきました。 サルの時代から言えば何十万年もこの状態が続いていたのです。DNAに染み込んでいるのでしょう。

 男はいつも自分が今どこに居て、どういう経路で家にたどり着けるかということを、脳が自動的に察知する能力を持つようになったといいます。脳の中にレーダーがあるようなものです。
 事実、住所とか大体の場所を聞けば、地図はなくてもたどり着いていたように思います。(最近はナビという便利なものに頼り切っていますが)
 そして、一度狩りの現場に立てば、いつ獣が襲ってくるか分かりません。無駄口をたたいている暇はありません。周りに神経を集中して、少しの物音にも敏感に反応するという習性がついたのでしょう。
 したがって、隣の人とペチャクチャ会話を楽しむことなどなかったと思います。
 
 それに引きかえ、女性は1日中家に居て、子育てや家事を取り仕切ります。今回のことで良く分かりましたが、起きてから寝るまで、家事は結構重労働です。
 まして、電氣もガスもない頃、まず火をおこし、食事を作るのも大変。洗濯機のない時代、洗濯も大変。大変づくしの家事業務です。遠方へ女性が出ることなどなかったでしょう。そうなると楽しみは家族との会話や、近所の女性との会話です。
 もちろん方向感覚は0です。私の妻などは、ナビを設定してもその目的地にたどり着かないというほどの方向音痴。それもうなづけます。
 日々の濃厚な人付き合いの中で女性は、相手の感情を読む能力を高めてゆきました。外で男が少しでも変なことをして帰ってこようものなら、全てお見通し。
 視覚も聴覚も嗅覚も五感、いや六感までも相手の感情を読み取れるようになっているのです。(怖いことです)
 
 男はと言えば、狩り(仕事)一筋です。話もしない、意思疎通よりも獲物の有りかを探し、取る技術を磨いてゆく。感性よりも技能です。眼だって近くのものを見る能力より、遠くを見る能力が増してゆきます。(女性は近くを見る能力、すなわち家具とか子どもとか、周りのものを見る能力が増す)
 皮膚だって違います。毎日毎日、大自然の中を男は動いているわけですから、固く厚くなってゆきます。女性は、薄く柔らかでスキンシップしたくなります。子どもが母とじゃれるのに都合がいいように。
 言葉使いも異なります。男は狩りに必要な事しかしゃべりません。したがって、言語能力が、女性が1日2万語しゃべるのに対し、男性は3分の1の7千語だそうです。
 ですから、女性がしゃべらなくなったら、その時は危機的状態です。(男性に敵意を感じているか、相当身体がまいっているかです)
 疲れた時の対処法も違います。男は年がら年中、駆け廻ってますので、家ではのんびり横になります。何も考えずに。これを粗大ごみと言われたら情けなくなります。
 女性は違います。疲れを癒すのは喋ることです。自分の特性である喋ることで癒します。
この対処法の違いは家庭の不和につながります。夫も妻も元氣のない時、妻はよりおしゃべりに徹しますが、夫は何も聞いていません。ボーっとしたいのですから・・・。
 これが、たまの日曜日に起こると悲惨です。あなたは私の言うことに一つも耳を傾けてくれないというヒステリックな状態になります。
 睡眠も男は完全に脳を休めますが、女性は断続的、あるいは仮眠状態です。家の中では、男はリラックスしていられますが、女性は子どもの事が氣になりますので、脳はいつも動いています。私など、4〜5時間の睡眠で十分なのですが、女房はいくら寝ても眠そうに起きて来ますので、その通りなんだと確信をいたしました。
 
 最近は、男女平等、ジェンダーとか言って、「男は女は」と言うことは差し控えるべきとの意見もあります。 それでも、人間は太古から、男は外、女は内という生活をやって来ました。
 それが、ここ50年や100年で変わるわけがありません。男女の差に眼をつぶるより、男女の差、役割の違いをしっかり認め合うことの方が大切なのではないでしょうか。
 男女の権利(受けるべきもの)は平等、しかし義務(しなければならないこと)は異なるのではないでしょうか。

                               代表社員 前原 幸夫 
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2015年08月05日

8月の言葉!「職場の教養」

「職場の教養」

 私どもでは、活力朝礼という元氣のよい朝礼を毎日行っていますが、そこで輪読、三分間スピーチ用として「職場の教養」という小冊子を使っています。
毎月送られて来て、365日一日一話があります。短い文章で深い内容の文章が毎日毎日綴られています。
  
 例えば、6月4日は「雨の贈り物」という表題で以下のようものでした。

 レストランを経営するY氏は、毎年夏が近づくと、憂鬱な氣分になります。
 一年の中でも特にジメジメとして、湿度が高くなるこの時期は、食材の保存や管理にも神経質になります。
 何より氣が重いのはトイレの清掃です。毎日、開店前にきれいに磨きあげるのですが、日中になると、床が湿気でぬれて、滑りやすくなります。また、雨の日に来店したお客様の靴で、床が汚れてしまうのです。
 6月のある日、開店当初から応援してくれている商店街の役員が来店しました。その役員も同じようにレストランを経営しています。
 「この時期は氣持ちも体も滅入るけれど、雨も必要があって降ってくれているんだよな」と独り言のようにつぶやいた言葉に、Y氏はハッとしました。
 「そうか、雨が降るからお米や野菜が育つのだ。トイレが汚れるのも、雨なのにお客様が来てくれるからだ。ありがたい」
 見方が変って、Y氏の心も晴れやかになったのです。

 梅雨時は、お客様の濡れた靴で床が汚れます。その汚れをいやいやながら掃除をするお店と、雨の中わざわざお客様が傘を差し、靴を濡らしてまでこの店にお越し下さる。ありがたいという思いで掃除するお店と、売上に差が出ないはずはありません。
 
 私の娘が高校生の頃、時々私が学校まで送ってゆくことがありました。学校の近くのコンビニで降ろすのですが、そこにコンビニは2軒並んであり、娘は必ず1つのコンビニに行っていました。
 理由を聞くと、そのコンビニは買い物をし店を出る時、笑顔で「行ってらっしゃい」と言ってくれるからとのことでした。
 中小企業が出来る差別化はわずかです。微差力です。ほんの少し違うことを本氣でやり続けることです。日常のほんの少しの心のあり方が大きな差になってしまいます。

 こんな事もありました。7月17日(金)は「空を見る」というタイトルで元氣のない時、空を見上げて深呼吸をすることを勧められ、実際屋上でやってみると、氣分が清々しくなり、仕事にも覇気が生まれたという内容でしたが、何か青春ドラマ風で、3分間スピーチ担当者もスピーチしづらそうでした。
 その日は丁度台風11号が岡山を直撃した日であり、事務所へ朝行くと、入り口あたりのカーペットがずぶ濡れ、雨が相当吹き込んで来たのだと思いながら、新聞紙や雑巾で乾かしていました。
 昼前に帰社した社員が、大きな声で「アレっ、雨が漏っている」と天井を指さし、その方を見ると、大きなシミが天井に描かれており、カーペットの雨水はドアからではなく、天井からだったのかと氣付きました。
 それまでは、ドアに隙間もないのにどこから入ったのか不思議でしたが、謎が解けました。私をはじめ、社員は皆ドアの隙間ばかり見て、カーペットの濡れた原因に首をかしげていたのですが、天井とは氣付きませんでした。たまには上を向け、見方を変えろという良き教訓をいただきました。

 最後に私の一番好きな話をご紹介します。もう2年程前の職場の教養に載っていたものです。ある村で、年一回村人全員で酒盛りをやるのですが、その年は不作で、村で酒を用意できないため各自家から酒を持ち寄り、樽の中に入れ、それを分けて乾杯を行ないました。飲んでみると水だったということです。
 
 村人が100人いたとすれば、他の99人は酒を持って来るだろうから、自分1人くらい水を持って行っても分かりはしないと思った村人が100人だったということです。
 99人は水を持って来るかもしれないけれど、せめて自分1人だけでも酒を持って行こうと思って酒を持参したならば、酒の樽になっていたことでしょう。
 
 どうせ1人位と思うか、せめて自分1人だけはと思うかで世の中大きな違いになります。
 私もせめて自分1人だけでもという心構えで生きてゆきます。
 この「職場の教養」毎月180万部出版されているということです。
 是非お手にして朝礼等でご活用下さい。

                        
                                   代表社員 前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 17:17| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月01日

7月の言葉!「活力朝礼コンテスト」

「活力朝礼コンテスト」

 当社では、毎朝8時30分から50分まで清掃、8時50分から9時まで活力朝礼を行ない業務に入ります。もう10年以上行なっていますが、弊社が所属している岡山県倫理法人会では、広くこの活力朝礼を普及させるため、昨年に続き、第2回活力朝礼コンテストを6月26日(金)18時30分より国際交流センターで行ないました。 参加社数は5社でしたが、我が社も手を挙げ、参加いたしました。

 我が社が活力朝礼を導入したきっかけは、「職場の教養」という冊誌でした。
 365日、毎日簡単な文章の中に含蓄のある深い内容が込められています。この職場の教養を使い、大きな声を出し、キビキビとテンポ良く、元氣に行なわれる朝礼を活力朝礼といいます。
 我が社の朝礼の流れは次のようなものです。進行係が自分の所属の会社と名前を名乗り、経営理念の唱和、朝の挨拶、クレドの唱和、挨拶の実習(月曜日は褒めトレ)、職場の教養輪読、感想発表、クレド実践報告、事務連絡、終了というように簡単なものです。
 時間にして10分程度です。社員は手の指はキチッと揃え(密指)、お辞儀の角度、タイミングを合せ、声は大きく、笑顔も絶やさず、かなり氣を入れてやっています。
 クレドにあるように、「責め心なき厳しさ」により細かい点も注意し合い、行なっていきます。

朝礼の効用(目的)は4つあります。

➀合せることの大切さを学ぶ
 お辞儀の角度、スピード、ハイの返事のタイミングを合わせることです。自分勝手にやると合いませ ん。会社でも、家庭でも、自分一人では出来ないことも人の手を借りれば出来ます。しかし、その時他人を自分に無理矢理合せさせるのではなく、自分が他人に合せていくことが大切になります。朝礼は進んで人と合せることの大切さを学ぶことができます。
Aモチベーションを上げる
 社長の訓話や職場の教養輪読の後、他の社員の感想を聞くことにより、自らを鼓舞してゆけます。自分のエネルギーを上げることにより、周りの人も上がってくるでしょう。 又、元氣な声を出すことにより、さらに元氣が生まれてきます。 
B凡事徹底を図る
 毎日ほぼ同じことを繰り返すことによって、基本動作を身につけてゆきます。
「おはようございます」「ありがとうございます」「お元氣さまです」毎朝、毎日毎日これらの言葉を唱和  し、チェックし合います。
Cスイッチを入れる
 プライベートな時間から、オフィシャルな時間へとスイッチを入れる。
 まさに朝礼を通じて、スイッチオンの状態になってゆきます。

  コンクール当日、各社はそれぞれ特色のある朝礼を披露してくれました。当社は残念ながら選にはもれま したが、私自身は非常にいい出来だったと思います。
  さわやかな朝一番の朝礼、会社によっては社長の訓示や叱責が長かったり、声がなかなか出なかったり、 お辞儀の角度やタイミング、スピードがバラバラだったり、覇気が感じられなかったり、様々な問題点があ るようです。
  要は社長のヤル氣です。試されているのは、社員のヤル氣ではありません。社長がよし、活力朝礼をやろ うと決心覚悟することです。(私もそうでした。)
  まるで軍隊のような大きな声を出させ、強引にさせて社員が離反してゆかないかと心配する社長も少なく ないと思います。
  各社、それぞれ事情がありますから、一概には言えませんが、朝礼で声が小さい会社は、普段の業務でも 声が小さいのではないでしょうか。お辞儀が合わないのは、普段の業務でも社員がバラバラではないのでし ょうか。キチッとメリハリのきいたマニュアルに沿った朝礼が出来ないのは、普段の業務でもダラダラして いるのではないでしょうか。
 一事が万事です。たった10分間の朝礼さえも声が出ず、隣の人に合わすことが出来ず、キチッとしたこと が出来ない社員が、いい仕事、元氣な接遇ができるわけがありません。
  まず、10分間の活力朝礼です。軍隊式のどこが悪いのでしょう。一番強い組織は軍隊です。我々は常在 戦場です。
  強い軍隊式の組織を作る必要があります。凡事を実践継続し、身も心も磨き上げた人財を作り上げねばな りません。それには毎朝の活力朝礼が私の知る限り、一番の近道だと思います。

 (インターネットで「活力朝礼」で検索していただくと、素晴らしい朝礼が動画で見れます。是非、ご参考に  して下さい。)


 先生原稿使用画像A.JPG先生原稿使用画像➀.JPG                                                                 代表社員 前原 幸夫 
posted by 前原幸夫 at 19:54| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする