2014年12月01日

12月の言葉!「サクラ、サクラ」

「サクラ、サクラ」

 11月1日〜5日まで、パラオに行って来ました。清水英雄先生以下7名での訪問でした。
 人呼んで7人の侍。
 清水英雄先生が「太平洋協会」の理事(ちなみに理事長は森元首相)をされており、パラオとは30年来の交流があり、又、来年4月天皇陛下が慰霊にお出かけになるという情報を聞いての訪問でした。
 
 11月1日、成田を夜の8時20分発。時差はなく、4時間30分かかってパラオ着。
 夜(朝)の3時頃ホテルへ到着。翌朝、早速パラオ観光です。
 日差しの強い中、シュノーケルやボートで楽しみ、身体は日焼一色。翌朝、髪にくしを入れると痛い。何か傷でも?と思い、触っても正常。しかし、髪をとかす度に痛い。後で見てもらうと頭のてっぺんが日焼けとのこと。日焼けというより、火焼け。やけどみたいなもので、髪が少ない哀れさを思い知った次第でした。

 頭のてっぺんにやけどを負いながらも、次の日はパラオの大統領との謁見です。大統領の官邸と国会議事堂がある島へ車で移動。小山の上に、日本の国会議事堂を2廻りも3廻りも小さくしたような国会議事堂と大統領府が並んでありました。前日の夕食の時、清水英雄先生の長年の友人であるパラオの元駐日大使ウエキさんに先導されての面会です。何せ、このウエキさん、現在御年83才。日本の小学校で学び、医学博士で日本語ペラペラ。
 パラオの初代の国会議員もされ、絶大な人脈をお持ちの方です。何せ2万人の島国ですから、大統領、大臣みな知り合い(後輩)という方、心強い限りでした。

 ウエキさんのご案内で、国会議事堂を見学させていただいた後、大統領の会見、主に清水英雄先生とのやりとりで、こちらの出る幕はありませんでしたが、大統領の日本に対する要望は3つ。
 1つは、観光にもっと来て欲しい。2つ目は、ODAがもっと欲しい。3つ目は、民間の投資がもっと欲しいというおねだりばかり。
 観光が唯一最大のパラオにとって、日本は大のお客様。     
 近年、中国人の来客が増えているそうですが、規制をかけているとのこと、それ程日本人に氣を配っているという感じでした。

 3日目は、いよいよペリリュー島へ慰霊の旅です。今回の旅行は、これがメインです。
 今から70年前、1944年11月24日、ペリリュー島守備隊が玉砕しました。その4ケ月程前、1944年7月7日、サイパン島が占領され、次の目標がパラオでした。
 パラオは1919年(大正8年)、第一次世界大戦でドイツが敗れ、それ以来、日本が統治しており、今でも日本風の建物があり、日本人の苗字らしい方も結構おられる親日国です。したがって、日本軍の重要基地があるペリリュー島は、アメリカ軍の格好の目標となりました。
 
 ペリリュー島の守備隊、指揮官は中川州男(くにお)陸軍大佐です。彼は、島内をくまなく歩き、数々の洞窟や鍾乳洞を発見します。島は隆起が激しく、河川はありませんが、1日に1回必ず降るスコールにより、飲み水には困りません。
 今までの日本軍の戦法は上陸してくるアメリカ軍を水際で攻撃し、上陸させない戦術でしたが、中川大佐は洞窟を利用し、地下にもぐり徹底抗戦で、持久戦を試みました。
 島内に500ほどある洞窟を地下でつなげ、島全体をトーチカ要塞にするというわけです。 

 1944年9月12日、ペリリュー島守備隊8,978名に向い、アメリカ軍の総攻撃が開始されます。
 当初、アメリカ軍は3日か4日で占領できるだろうと考え、総攻撃の前日はステーキでカンパイを上げたといいます。
 空母8隻を始め、300隻以上の艦隊、3日間で17万発、約4,000tの砲弾が小島に降り注ぎました。しかし、日本軍は地下へ潜り、じっと我慢の持久戦。無数の機雷をくぐり抜けて、上陸してくるアメリカ軍に必死の抵抗。アメリカ軍が今まで経験したことのない頑強さで、海岸はアメリカ軍の死体で血に染まったといいます。

 連日連夜の激しい戦闘の中、次第に兵力も弾丸も食糧もなくなってゆきます。
 戦線開始から72日目の11月24日、もうこれまでと覚悟した中川大佐は、全員玉砕を意味する「サクラ」という暗号を発信、洞窟の奥に進み、軍旗に深く頭を垂れ、その後日本本土の方向へ向かい深く一礼した後、割腹し、自決しました。
 その後も、一部の日本軍人はペリリュー島に潜み、戦い続けましたが、1947年(昭和22年)4月21日34名が洞窟で発見され、ペリリュー島の戦いは終りました。

 我々は、今でも70年前日本軍が使用した食器や空き瓶の残る洞窟や、ゼロ戦の残骸、戦車の残骸、山をくり抜いて作った高射砲陣地、滑走路の跡、そして、中川大佐が自決した終焉の地(洞窟)をめぐり、涙し、般若心経を唱えさせていただきました。

 サイパンに続き、天皇陛下は来春、パラオにも慰霊のため訪問されます。
 来年は終戦から70年、戦闘は終わったけれども、戦争は続いているとの印象は深く私の心に刻まれました。
     
                             代表社員 前原 幸夫    
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2014年11月01日

11月の言葉!「昭和100年」

「昭和100年」

 私は、以前70年周期説というものをご紹介しました。今から約140年前、明治10年(1887年)西郷隆盛が蜂起した西南の役、これを境に武士の世の中から、明治新政府へと完全に時代は移りました。それまでの鎖国政策から文明開化、ヨーロッパの列強へ、追いつけ追い越せとばかり、富国強兵の政策をおし進めてきました。
 その行き着く先は、第二次世界大戦でした。そして明治10年(1877年)から約70年後1945年、第二次世界大戦に負けた日本は、自由と平等という相反する理念の基、今度はアメリカを手本とする大量生産、大量消費へと大きく舵を切りました。
 日本人本来の美徳を捨て、ひたすらエコノミックアニマルと化し、資本主義をおし進めてきました。そして行き着いたところは、少子高齢化社会、借金大国、核家族化、格差社会でした。

 1945年から来年2015年は70年です。
 これまでの70年間、日本人としての美徳を捨て、日本人としての誇りを奪われ、日本人としての背骨を抜かれ続け、自分さえよければよい、使い捨てが当たり前の日本人となり下がりました。
 しかし、我々は今までの価値観では、幸せになれないことに氣づき、大きく舵を切り直す必要があると思い始めています。
 経済成長が人の幸せと連動しないこと、いや、経済成長以外に、人の幸せのバロメーターを見出す(見出さざるを得ない)必要がでてきました。
 2015年からの10年間、ここが勝負です。新しい価値観、新しい幸福観、新しい事業観・・・等々新しい思考の枠組み、パラダイムシフトが必要となります。
 
 例えば、より安くよりいい物を買おうとする消費行動。
 安いものは全て中国、ベトナム、カンボジア等からの輸入品です。日本人が丹精込めたものが、中国や東南アジアでできたものの値段で売れるわけがありません。
 いい物(日本製)は高いのです。今までは大量生産、大量消費の名の下、安いものイコールいいこという風潮でしたが、人口減少の今、大量な消費はありえません。
 身の丈に合った消費でいいのです。まとめ買いをし、大きな冷蔵庫がいっぱいになっていた我が家も、85歳の母と還暦を過ぎた我々夫婦にとっては、半分いや1/3でいいのです。その代り、少しだけ高価なものを、その都度買い求めるという消費行動になります。
 地域の人々が丹精こめて作った米や野菜、肉、魚。10年に1本買い替えればいいジーンズ。いい物を少量買って、長く使う。持つ幸せから、使う(活かす)幸せへの転換です。

 又、働くということも変わってきます。昔は60歳で定年退職、年金をもらいながら(女性は55歳でした)悠々自適。今こんな老後は望めません。
 一つは財政上、一つは健康上の理由からです。財政的には、ご承知の通りの日本国の状態です。頼りにするほうが無理です。年金も介護も医療も切り下げが必要です。
年金が少なくなれば、働かねばなりません。
 介護、そして医療給付が切り下げられれば、健康でいなければなりません。
健康でいるためには、身体を動かすことを嫌がっていてはいけません。人のために身を動かし、少しばかりのお金が入り、いつまでも健康でいて、介護や、医療保険のお世話にならない人生。それは働くことです。
死ぬまで働くことです。この喜働観がこれからの日本には必要です。
 これからの10年、特にパラダイムシフト(思考の枠組みの変化)が必要となります。
 個から衆へ、遊から働へ、捨から拾へ、持つから借りる、都会から田舎へ、お金から心へ・・・
 
 1945年から70年後の来年2015年、ここから10年後の2025年。
 この年は、今2025年問題としてクローズアップされていますが、昭和25年生まれの団塊の世代が75歳を迎えます。
 75歳以上の後期高齢者と呼ばれる老人が2200万人。日本の人口の1/5は75歳以上になります。(65歳以上は30%)
 年金、介護、医療の負担はうなぎ昇り、赤字財政はますます増大、インフレによる物価高、もうお金で解決することは困難です。では何で・・・・、それは人の心です。
人を思いやり、人のために人生を使う。これがなければ、もうお金がないのですから。地域の介護は地域で行う。地域の医療も地域で格安で行う。耕作できない農地は、地域の人々が耕し、農作物を自給自足する。人口減により余った民家は、安く若夫婦に貸し出す。
 自分だけいい物を着、いいものを食べたいという欲望から、皆でそれなりのものを着て皆でおいしく食べるという喜び。

 日本人が本来持っていた人の和、人との共生、共栄を一番に考える行動様式が必要となります。
 2015年は、来るべき2025年へ向けてのパラダイムシフトへの準備期間です。しっかりと準備をしてゆきましょう。物の準備、体の準備、心の準備をです。
 それには、日本古来の生活風俗、生活習慣に学ぶ必要があります。もったいない精神、男女老若の順序、目上の方への尊敬の念、共同体意識、地域愛、祖先崇拝、すべて日本人が持っていたものです。
 この10年で思い出し、動いていきましょう。
 2025年は、ちょうど昭和100年です。

 

                            代表社員   前原 幸夫
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2014年10月03日

10月の言葉!「会計事務所甲子園」

「会計事務所甲子園」

「会計事務所甲子園」あまり聞き慣れない言葉ですが、高校野球の甲子園大会にちなみ、俳句甲子園や居酒屋甲子園など、最近流行りのようです。
 我々、会計事務所業界にも第2回目になりますが、会計事務所甲子園があると聞き、社員から参加・挑戦したいと、申し出があり、エントリーいたしました。
 
 この会の目的は、会計人が輝けるステージや、学びの場を提供し合い、いわば他流試合をやることにより、自社の良い点に氣づき、これを伸ばし、他社の良い点を吸収し、中小企業支援(志援)力を高めることにあります。
 「中小企業を元氣にする」ということが、我社の理念でもあり、会の目的に共鳴するところですので、何も分からないままエントリーをしました。
 6月エントリー終了、エントリーした会計事務所は、計49事務所でした。
7月書類審査、8月面接審査、9月地方大会、そして今年12月3日、東京渋谷公会堂で決勝大会というスケジュールです。

 まず、書類審査による1次選考、これには私はほとんどノータッチ。
社員の有志が、➀お客様満足度を上げ、お客様にどう貢献していくか Aその度合い B社員満足度への取組み C社員共育の方針等につき、文章で審査を受け、2次審査に。2次は面談です。   
8月19日、私と社員1人の2名に対し、東京から2名の審査担当者。先方の質問にこちらが答えるという2対2の面接方式。それをビデオに撮り、まとめて審査するとのこと。受ける側も大変ですが、審査する側も大変。

 2次が通れば、3次。これは東京・名古屋・大阪3ヶ所での地方大会となります。
何と8月26日、2次通過とのメール。最初は興味本位で参加していたため「エッ本当?」と言う感じでした。
 しかし、それからが大作業。何と3次はパワーポイントを使い、社員が20分間プレゼンテーションをするというものでした。
 8月31日には清水英雄先生の1日研修。9月4日からは社員旅行という中で、パワーポイントは9月3日までに作成しなければなりません。実質9月1〜3日の3日間であったにもかかわらず、出来上がったものを見て、その素晴らしさに思わず涙がこぼれました。
 我が社員の底力をしっかり見せてもらいました。
 東京4会計事務所、大阪4会計事務所、名古屋3会計事務所による地方予選です。
 9月11日、我々は大阪会場ですので、大阪へ。

 4会計事務所の個性あるプレゼンテーションが終了し、大満足。かなりの手応えでした。
 11会計事務所の地方大会でしたが、12月の決勝戦に出れるのは、5会計事務所のみ。
 私は、社員達の感動的なプレゼンを見て、選ばれることは確信していましたが、9月18日見事決勝進出とのメール。
 いよいよ、12月3日渋谷公会堂で、2,000名を目の前にしたプレゼンテーションでの競い合いです。 詳細はまだ決まっていませんが、5会計事務所の熱き戦いがくり広げられることでしょう。 我々も12月3日を目指し、顔晴る決意でおります。

 大阪予選でおもしろい(と言っては失礼)会計事務所がありました。
大阪市内の河原治税理士事務所です。何と、この会計事務所、パン屋さん専門の会計事務所です。まず、所長先生が大のパン好き。採用もパン好きかどうかが、一番のポイント。名刺もパン屋さんのマンガ。パン屋さんを食べ歩き、お客様のパン屋さんがオープンの時は全社員で応援に入り、パン屋の事は何でも分かる。パン屋の件数や情報力はbP。社員5〜6名ですのでそんなに大きな規模ではありませんが、こんな事務所があるのかと驚かされました。

 大阪予選で我が事務所と、この河原治税理士事務所が決勝に出ます。最大のライバルかもしれません。

                            代表社員   前原 幸夫
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2014年09月01日

9月の言葉!「富士登山」

 「富士登山」
 
 8月3日、4日と富士山に登って来ました。昨年のリベンジです。
昨年は、還暦ということもあり、いろんな体験をさせていただきました。3月25日還暦の日に富士山の麓での研修、5月100キロウォーク、8月富士登山、11月には出雲参拝、そして伊勢神宮の五十鈴川での水行、屋久島縄文杉登山と行事が目白押しでした。

 その中でも、富士山への登山は、100キロウォークを完歩したこともあり、ほとんど何の練習もせず臨んだ為、9合目で涙のリタイア。一人寂しく下山したという苦い思い出があり、今回は何が何でもという強い念いで行きました。もちろん練習もそれなりにはしました。
 昨年は、裏山に登ろうと行ったのですが、ほんの少し登っただけで「よし!」と降りて来ましたので、今年は、まず裏山(400m位の低い山)へ登ろうと6月下旬目指して行きました。途中、先輩に会い、山へ登ることを言うと血相を変えられる始末。よく聞くと今の時期は、上の方はマムシが多く非常に危険とのことで、裏山登山は断念。
 その代わり、我が家の前には旭川が流れ、その堤防には50数段の階段と坂道があり、ここでトレーニングをすることにしました。
 早足で30分歩き、50数段の階段を1段ずつ、2段ずつとそれぞれ変化を持たせ、5〜10往復。50mくらいの坂道をゆっくり、早足で、ランニングでと、登ったり下ったりで5〜10往復。陽は陰ったと言っても、何せ7月の真夏日の夕刻、汗びっしょりになりながらの涙ぐましい特訓でした。
 
 そんな準備をし、8月3日いざ出陣です。岡山からは、津山のラーメンファミリーを経営する河原さんと同行。途中、富士山5合目で、足利の福田茂夫先生とその社員さんで山ガールの児島さんと合流。4人で頂上を目指します。と言っても、福田先生は3度目、児島さんは初めてとは言え、日本国中の山々を制覇した強者。問題は私と河原さんでした。
 5合目到着、午後2時。5合目でも2,300mの高地の為、1時間位体を慣らし3時に出発、8合目の山小屋を目指します。昨年は、一番下の山小屋で仮眠だった為、翌日の行程が長く厳しかった苦い経験から、今年は上の方の山小屋へ。6合目まではハイキング氣分。そこからかなりの急勾配。ジグザグの道もあり、見上げると山小屋が点々とあり、その勾配のきつさを教えてくれていました。   

 天氣は非常に良く、登れば登るほど開けてくる視界に、充実感で心が癒されてゆきました。河口湖や山中湖が見事に眼下に見渡せ、とっぷりと日が暮れた7時30分(私の予定では予定通り)3,250mの山小屋へ到着。8時から食事でした。昨年はキツくてキツくて、とても食事(ましてビール)どころではなかったのですが、今年はビールで乾杯。食事もおいしくいただきました。9時過ぎ、消灯で寝ようとした瞬間、両足の太ももにひきつけ。「痛い!」と大声を上げると、どこからか救いの手が。私の大声を聞き、近くで寝ていた人が何と親切に私の足をマッサージ。      
 攣りかけていた足が何とか元通り。大過なく眠る事が出来ました。とっさのことで、この方のお名前を聞きそびれてしまいましたが、本当に心より御礼申し上げます。

 何せ、狭い仮眠部屋ですから、ほとんど寝ずに朝3時、出発の準備をし、3時半頃頂上を目指し、山小屋を後に。途中、朝焼けそして、ご来光を拝み、一歩一歩頂上へ。前日より、足取りは重く、予定の時間をはるかに超えて、午前8時頂上へ。頂上の空氣をゆっくり味わい、帰途につきました。

 今回の登山で感じた事3点。

1. 友はありがたい。昨年は3強1弱でしたが(勿論、1弱は私)、今年は2強2弱、少々時間はかかりましたが、ペースを共有してくれる仲間がいるとありがたい!!
2. とにかく空氣を出すことに専念しました。怖いのは高山病ですので、腹式呼吸がいいと教わり、大きな息をすることを心がけました。しかも大きく吸うのではなく、大きく吐き、吐ききること。「出せば入る」  まさにその通りでした。
3. 一歩一歩の積み重ね、見上げるとはるかに続く人の波。それも真上にあるような感じの急斜面。これをあそこまで登るのかと思うと、心も折れます。しかし、現実は下を向き目の前の岩場、石ころを一歩ずつ、  真にコツコツです。

 ともあれ下山し、おいしいビールにありつけました。
 来年も100キロウォーク、富士登山挑戦します。

       先生原稿使用画像@.JPG          代表社員  前原 幸夫
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2014年08月01日

8月の言葉!「喜働」

 「喜 働」

 『働き過ぎは罪悪だ、などといって仕事にいそしんでいる人を軽蔑するかのような風潮が出はじめている。あぶない、あぶない。ごまかされてはいけない。働きすぎの「すぎ」をうっかり見のがして、「働くことは罪悪だ」といった見方におち入りかかっているのではなかろうか。こうなると「怠けることはよいこと」だから「遊ぶことこそ美徳である」というようになりかねまい。』

 上記の文章は今から約40年前、1973年(昭和48年)のある方の文章です。
40年後の今まさにその風潮は蔓延しているのではないでしょうか。
「働きすぎ」のすぎはどこから来るのか。今の日本を思うとき、「すぎ」などあるのだろうかと思わざるを得ません。国家収入が約50兆円なのに、1,000兆円を超える借金を背負い、中国、北朝鮮、ロシア、韓国等々の武力的脅威に遭いながら、それでも悠々として働かない時を過ごすことが出来るのか、はなはだ疑問です。 そんな現状を思うとたまらなくなり、せめて私一人だけでもそんな風潮に警鐘を鳴らそうと思っています。
 ほんの100年200年前まで常識であったものが、現在常識でなくなっているもの、いや、脈々と日本人に流れてきたものが、ここ100年足らずで覆っているものが3つあります。

 1つ目は、農業に農薬や肥料を使うという常識です。岡山県で木村式自然農法という無肥料・無農薬で稲作を推進している団体があります。5年ほど前から作っているのですが、始めた当初、これを聞いた農協関係者に無肥料・無農薬で米は作れないと鼻で笑われたそうです。    
しかし、よく考えてみれば農薬や化学肥料を使いだしたのは、ここ100年足らずのことで米がいつごろから作り始められたかは知りませんが、何千年も人間は無肥料・無農薬で米を作ってきたはずです。当然量は少ないですが、無肥料・無農薬で米は作れますし、これがおいしく、少し高いですが飛ぶように売れているということです。
 
 2つ目は、空腹か満腹かです。今の日本人で毎日毎日お腹をすかせている人はほとんどいないと思います。空腹どころかダイエットと称して食べるものをわざと控えている始末です。
 しかし、これも多分ここ50年ほどのことだと思います。日本人が昔、狩りをしていた頃、又、農耕を覚え稲やアワやヒエを作った頃から、何万年、何千年満腹で過ごした時代などなかったはずです。ということは、空腹が当たり前(平常)であり、満腹は異常な状態なのです。ましてケーキは別腹と、満腹の上になお食べるなどということは、人間の生理に反していることなのです。いつも空腹を感じながら生活することの方が自然な生き方なのかもしれません。私も今、朝食を抜いて(午前中は排せつの時間帯だということで)一日二食。空腹を楽しんでいます。

 3つ目は働くということです。週休2日、祝日だ有給だと、いかに働かないかを競っていますが、これもここ30年くらいのことです。明治政府になり太陽暦が導入されるまで土曜日も日曜日もなかったわけで、日本人はほんの最近まで朝から晩まで、いや、夜なべ仕事までして一日中、一年中働いていたのです。休めば自分の命を縮めるというくらいの働きが、何千年も営まれていたはずです。休みは盆と正月のみ、コツコツと生活の糧を生みだしてきたのです。
 
 過労死とか、働きすぎなどという言葉はあろうはずがありません。実際人間は喜んで働けば、疲れないし働きすぎと感じません。不平不満を言いながら嫌々働いているから働きすぎ、過労死を引き寄せるのです。同じ一時間でも楽しいことをしていればすぐに時間が過ぎますが、いやなことをしていると一時間がとても長く感じる、これと同じです。
 働く時間の長さではなく、どんな心で働くかです。労働ではなく、喜働です。
日本人は昔から働くことを尊び、働くことに生きがいを見出して来ました。まさに喜働です。その上、喜働は人から喜ばれ、感謝されます。人も喜んでくれ、自分も喜びに満ちた人生を送れる。こんな素晴らしいことはありません。
 
 ここ数年、私もほとんど休みなく働いています。朝4時半に起き、夜11時頃就寝。1日19時間喜働です。昼休みも昼食を食べる以外休みません。年間家でぼ〜っとすごすことが5日くらいでしょうか。正月も3日から、お盆は町内の行事が8月14、15、16日とありますので、それ以外は喜働です。そんなに働いてもいっこうに疲れません。
 過労など感じたことはありません。それより益々健康で毎日のごはん、お酒が非常においしく60歳を超えた今も快調そのものです。ああ、今日も働けてよかった。明日も働ける。こんな喜びの働き、喜びの人生を送っています。まさに「働きは最高の幸せである」です。

                              代表社員  前原 幸夫
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2014年07月04日

7月の言葉!「三本目の矢」

「三本目の矢」

 2012年12月に安倍政権が誕生してから1年半が経過しました。高い支持率を背景に今までの政権がやってこなかった様々な改革を断行しようとしています。そのよしあしは別として、この高支持率の元はアベノミクスです。いわゆる三本の矢と言われるものです。

 最近この三本の矢を揶揄する話として次のようなことを聞きました。
三本の矢とはご存知のとおり大胆な金融政策、機動的な財政出助による景氣の底上げ、民間投資を喚起する成長戦略です。一本の矢は市場に流通する資金の量を増やし、デフレからインフレへ指向してゆくもので、これは円安指向を誘い株価も上昇しA評価。第二の矢は昨年末の補正予算そして今年度の予算と大型であり、公共投資も大型の予算組みをして経済の下支えをしてゆこうとするものでありますが、一方 赤字国債の残高が増えるという弊害もあり評価B。
三本目の矢は先日発表された骨太の方針で示されましたが、いま一つ迫力に欠け評価はE。
一本目がA、二本目がB、三本目がEでABE(安倍)という小話っぽい話ですが、ことはそんな笑いごとですまされるようなものではありません。

 特に三本目の矢、今の日本に成長を前提とした経済政策がふさわしいのかどうかです。さらに言えば成長する強い産業・企業と、その成長について行けない弱い産業・企業との二極化を助長させる政策ではないのかという点です。
 例えば、法人税の減税についても、下がるのは大企業であり、中小企業は逆に税率を上げるなど増税が検討されています。また、海外からは安い労働力を受け入れたり、ホワイトカラーエグゼンプション(いわゆる残業代「0」政策)という二極化、しかもこれらの採用によるメリットはやはり大企業に限られてくるといった風にです。そこには弱い中小企業を含めた日本の全体的な経済の底上げは期待できない(期待しない)、代わりに強い産業、強い企業にしっかり体力をつけてもらい、収益力を拡大してもらい、賃金を上げてもらい、購買力をつけてもらい、設備投資をしてもらい、経済を引っぱってもらいたいという意思が見え隠れしてなりません。
 
 しかしその目論見どおり行くでしょうか。私は今の日本が国内で経済の成長をどんどん限りなく行なってゆくことは不可能だと思っています。最近の論調は世界の経済さえも成長を前提とするのはムリがある、資本主義は終わりに近付いているといったものが見受けられます。
 これから50年というスパンでみれば、グローバル企業は東南アジアの次はインド、インドの次は中東、中東の次はアフリカと次々経済成長の源泉を求めてゆくでしょうから、成長の余地はありますが、日本国内をみれば、そのグローバルな企業の本社は確かに日本国内にあるけれども、生産拠点は世界中にあり、それぞれ現地の人を雇い、現地で設備を調達し、現地で物を売っているグローバルという名の国外活動企業です。それら企業は、収益は日本にもたらすかもしれませんが、経済成長は現地にもたらします。(それにも限度があり、100年単位でみれば終わりに近づいています)

 しかもそれは日本の国内にしか居られない中小企業群には、成長の余地はなくなりつつあるということです。今までの市場はどんどん拡大し、一人当たりの購買力も所得の上昇とともに上ってきました。それを背景に設備投資が行われ、国家財政も豊かになり公共投資に廻せる予算も増えてきて、また、経済を成長させるという好循環でした。
 
 しかし、今はどうでしょう。国の借金は1,000兆円を超し、65歳以上の高齢者が全人口の4分の1を占め、家の中を見渡しても、欲しいもの買いたいものはなし。正社員は減少し、パート・アルバイト等の非正規社員は労働者全体の3分の1を超え、しかもこの借入、高齢化率、物余り、非正規社員化がどんどん進行してゆこうとしている今の日本の国内で、企業が設備投資等をどんどん行い、賃金を上げ続け、消費者がどんどん物を買いあさり、国が公共投資等に予算をどんどんばらまき続けることなどあり得ないことです。
国は借金やこれから少子高齢化に伴い増え続けるであろう年金、介護、健保のために国民に税負担を強い、企業は海外の安い労働者にたより、日本の若者をどんどん非正規化し、賃下げを行い、増え続ける税負担に可処分所得は減り続け、グローバルな企業は海外活動を活発化させ、空洞化は進み、国の借金は増え続け予算はますます硬直化してゆき、公共投資どころか公務員の給与・年金も削られるようになり、将来を不安視する国民は消費拡大どころか生活を切り詰めやっとの生活。そんな近い将来が予想されてなりません。

 あまりにも悲観的な見方かもしれませんが、資本主義は終わりに近づき新しい経済運営が求められているように思います。
 その先頭にあるのが日本です。経済成長をよりどころとしない生活感成長。国に頼るのをやめ、地域の人々が助け合い、分け合う自助の精神の確立。量的な拡大ではなく質的な充実。物に満足を求めるのではなく、人の温かさに満たされる生活。そんな内面の豊かさ、心の豊かさを追求する時代が到来したとしたら、資本主義の次は真に心の時代と言える豊かな時代になるはずです。しかもその先頭にはいやがおうでも日本がいます。

                            代表社員  前原 幸夫
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2014年06月04日

6月の言葉!「サラリーシェア」

                 「サラリーシェア」

 もう何年前になるでしょうか。堺屋太一の「団塊の世代」という本が流行りました。
先日、その続編(完結編)とも言える「団塊の秋」という本を読みました。団塊の世代が迎える60代、70代、80代、2028年頃までの未来予想図でした。大変身につまされるというか他人事ではない臨場感がありました。

 その中でこんな会話があります。もう70才代の友人同志が、
「俺たちは個人的にも社会的にも次の世代の世話になりたくない。年金の価値が減っても別に困らんよ。みんなが貧しくなるんなら怖くない」
「考えてみろよ。年金が減ったとか、給与は上がらんと言うけれど、まだ1970年 万博の年よりはずっと上だよ。あの頃は貧しかった(以下略)」
「ほんまに怖いのは自分だけが貧しくなることや。年金の水準が下がっても年金プラス10万円の月収があったら十分に満足できるよ」
「問題はやはり格差かねえ」
「それも違うな。格差なんか是正したらあかん。豊かな人を貧しくしても貧しい人は豊かにならない。みんな貧しくなるだけや。月10万円でええ。夫婦のどっちかに月10万円稼げる仕組みがあったらええ。要は高齢者に適した働ける(収入を得られる)システムをつくることや」
「ふ〜ん。月に10万円が年金を引き上げるよりも高齢者が働ける仕組みか」
というくだりです。

 私の考え方とぴったりで驚きました。私はサラリーシェアという仕組みで社員の老後の生活設計を考えています。零細企業にとって退職金は相当な負担です。零細企業が大企業や官公庁のように、1人当たり2000万円〜3000万円の退職金と支出をすることは到底無理です。しかも昨今の年金の減額化、支給年齢の引き上げ等により零細企業の退職者は年金だけでは生活できない状況がだんだん出てきます。まして、今30代、40代の社員はたぶん年金は70才から、月額も15万円程度とより一層悪くなるでしょう。
 この状況を企業側も良し、社員側も良し、そして国も良しというようにする手法が「サラリーシェア」です。
 サラリーシェアでは退職はありません。死ぬまで給与を支払い続けます。したがって退職金は原則ありません。
 しかし、例えば、65才から75才まで月収25万円×12ケ月=年収300万円を10年間もらえば3000万円です。3000万円の退職金をもらったことと同じになります。
 サラリーシェアは定年なし、退職金なし、死ぬまで給与支給を受けれる仕組です。

 一つの例ですが、65才で年収1000万円の社員の場合を例にとれば、65才で週休3日にし、若い社員を雇用します。その社員に年収400万円を支給し、自分は1000万円を600万円に落とします。    
若い社員を徹底的に教育し、自分の何十年も蓄えた知識、ノウハウ、人脈等々を伝授します。いわば弟子を一人つくるようなものです。
その間、例えば30万円/年ずつ、自分の給与を減らし、若い社員の給与を増やしてゆきます。70才で450万、75才で300万、80才で150万。その減額した分、若い社員の年収は増えてゆきます。30才で400万とすれば、35才で550万、40才で700万、45才で850万といった具合です。そして80才以降は150万は死ぬまで支払続けます。又、若い社員は自ら、収入源を+αしてゆきます。お互いwin-winです。

 このサラリーシェアの良い点は、
1.会社の負担は一切増えません。
  退職するはずの社員の給与をシェアするわけですから、若い社員が増えても、給与総額は増えません。
2.退職金の支給がない。
3.ノウハウや経験の伝承がスムーズに行われる。
次のこれが大切なことですが、
4.社員は60才あるいは65才という通常の定年の年までに、自分の給与を最大限に上昇しておく必要があり   ます。65才の時の年収が、400万ではシェアしようがありません。せめて800万以上稼ぐ社員になっておく  必要があります。自らの老後を豊かにするために現役の時しっかり働いて、自分の価値を最大限高めておく  必要があります。65才の年収が高ければ高いほど老後のシェアした残額は大きいものがあります。
5.次にシェアしたあとも、会社への帰属意識が薄れないということです。週休3日、4日、5日とだんだん出  勤日は少なくなりますが、それでも会社がしっかりと利益を出し、成長発展しないと老後の生活の安定はあ  りません。

 自ら、65才すぎてもいくつになっても会社のためとしっかり情報の提供等、仕事はやってもらえるはずです。何せ、30年も40年もこの会社のために働いてきた方です。その人の周りには、人・モノ・情報、ノウハウ等々、多くの宝があります。
 これを定年だからといって、切ってしまうのは勿体ない極みです。死ぬまで我が社のために働いてもらいましょう。

「働いている時が本当に生きている時である。何もせずにぼんやり過した1日は死んだ1日である」
「働いてはじめて生甲斐がある。働きが一切であり、働きが人生である」
「人が生きているということは、働くことである。働く喜びこそ生きている喜びである」
  
                           代表社員  前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 17:29| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月01日

5月の言葉!「戦後史の正体」

「戦後史の正体」

 最近読んだ本をご紹介します。
題名は「戦後史の正体」著者は元外務省国際情報局長であり防衛大学校の教授でもあった孫崎 亨氏。ある社長さんからぜひ読んでみたらと言われお借りしました。
戦後史と言えば昭和28年生まれの私には、一番身近かなというか同世代であり、自己史と言えるほどの存在なのに、読んでびっくり。全く何も知らなかった。いや、知らされていなかったという驚きでいっぱいでした。

 まず第二次世界大戦の終わりは8月15日ではなく9月2日だということです。
連合国が提示した「ポツダム宣言」を日本が受け入れる表明をした日が8月15日であって戦争が終わった日ではなく、降伏文書に署名した日、1945年9月2日が戦いの終わりだと言うことです。それはそのとおりで一方が負けましたと言っても双方が確認しあう必要があるわけですから、やはり9月2日が正しいのでしょう。

 しかも無条件降伏であり、単なる終戦ではありません。我々は日本は負けた、無条件降伏したという認識から戦後をスタートする必要があると著者は力説されます。
防衛大学でも降伏文書さえ読んだことのない学生に戦史を教えており、降伏という一番厳しい現実から学び、悔しさをバネにしてゆく必要があるのではないでしょうか。
 ではその降伏文書には何が書かれているのでしょうか。これが降伏文書です。


 以下の者はここに、合衆国、中華民国および英国の政府首脳が1945年7月26日「ポツダム」において発令し、その後ソ連が参加した宣言の条項を、日本国天皇、日本国政府および日本帝国大本営の命により、それに代わり受諾する。右の四カ国は、以下これを連合国と称する。
 以下の者はここに、日本帝国大本営ならびに、いずれの位置にあるかを問わずすべての日本国軍隊および日本国の支配下にあるすべての軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告する。
 以下の者はここに、いずれの位置にあるかを問わずすべての日本国軍隊および日本国臣民に対し、敵対行為をただちにやめること、すべての船舶、航空機ならびに軍用および非軍用財産保存し、それが毀損しないようにすること、および連合国最高司令官またはその指示にもとづき日本国政府の諸機関を課すすべての要求に応じることを命令する。
 以下の者はここに、日本帝国大本営が、いずれの位置にあるかを問わずすべての日本国軍隊および日本国の支配下にあるすべての軍隊の指揮官に対し、自身およびその支配下にあるすべての軍隊が無条件に降伏しなければならないという内容の命令をただちに発令することを命令する。
 以下の者はここに、すべての官庁、陸軍および海軍の職員に対し、連合国最高司令官がこの降伏実施のため適当であると認めて自ら発令するか、またはその委任にもとづき発令させたすべての布告、命令および指示を遵守し、かつこれを施行することを命令する。ならびにその職員が連合国最高司令官によるか、またはその委任にもとづき特に任務を解かれない限り、各自の地位にとどまり、引きつづき各自の非戦闘的任務を行うことを命令する。
 以下の者はここに、「ポツダム」宣言の条項を誠実に履行することをならびに、その宣言を実施するため連合国最高司令官またはその他特定の連合国代表者が要求するであろうすべての命令を発令し、かつそのようなすべての措置をとることを、天皇、日本国政府およびその後継者のために約束する。
 以下の者はここに、日本帝国政府および日本帝国大本営に対し、現に日本国の支配下にあるすべての連合国の捕虜および抑留者をただちに解放することならびにその保護、手当、給養および指示された場所への即時輸送のための措置をとることを命令する。
天皇および日本国政府の国家統治の権限は、この降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる連合国最高司令官の制限の下におかれるものとする。

1945年9月2日午前9時4分 日本国東京湾上において署名する
大日本帝国天皇陛下および日本国政府の命により、かつその名において
重光葵
日本帝国大本営の命により、かつその名において
梅津美治郎
1945年9月2日午前9時8分 日本国東京湾上において、合衆国、中華民国およびソ連のために、ならびに日本国と戦争状態にある他の連合諸国家の利益のために受諾する

連合国最高司令官
ダグラス・マッカーサー
合衆国代表者
C・W・ニミッツ
(以下、略)


 天皇および日本国政府は、連合国最高司令長官すなわちマッカーサー下におかれ全ての要求に従うということです。
 占領期、吉田茂でさえもマッカーサーの要求を承認するロボットだったということです。
さらにマッカーサーは
1.日本の公用語を英語にする
2.米国に対する違反は軍事裁判で処分する
3.通貨は米国の軍票にする
 という布告を最初に出す予定でした。これに対し時の重光外相のすばらしい交渉力で撤回させたということです。

 しかし日本は完全なアメリカの従属国でした。
 終戦3日目には,アメリカ軍用に特殊慰安施設が作られ当時の日本の警備局長が全国から1360名の慰安婦を集めたと言います。(日本の警察が)
 また1945年12月17日からB・C級の戦犯の裁判が、1946年5月3日からA級戦犯の裁判が行われ、東京裁判にかけられるまでいかなくとも公職を追放された人が1946年1月に6千人、1947年〜48年に19万人も出ています。

 米国の狙いは、日本をふたたび大国として生まれ返さないために国家の根本を改造し、民族を再教育しようとするものでした。
 その具体的な施策は、日本人の生活水準を朝鮮人、インドネシア人、ベトナム人以下に落とそうとしたものです。
 つまり工業分野の徹底的な破壊です。戦時賠償委員長のボーレは
@米国の賠償政策は、最小限の日本経済を維持するために必要でないすべてのものを日本から取り除く方針で ある。
A最小限とは、日本が侵略した国々の生活水準よりも高くない水準を意味する。
 という声明を1945年11月に出しています。

 一方で、国富というべき生産設備を破壊しながら、もう一方で米軍の駐留経費を要求し、日本へ負担させています。
 1946年379億円(予算の32%)1947年641億円(同31%)1948年1,061億円(同23%)という負担額です。
 これに抵抗したのが石橋湛山、時の大蔵大臣でしたが、GHQにより1947年5月6日の公職追放となりました。
 もちろん日本国憲法もアメリカの作成したものを日本語に訳し、少し修正を加えたものでしかありません。(しかもGHQの案を受け入れなければ、天皇を戦犯にするという脅しまでかけて)

 ついでですが、日本国憲法制定後の初めての選挙で片山哲社会党内閣が誕生します。
なぜマッカーサーが社会党政権をあえて許したか。彼の狙いは日本の民主化であり、彼の民主化の基はキリスト教でした。
 マッカーサーは
「日本人の精神生活は戦争で空白になっているからキリスト教を日本に布教するには今が絶好のチャンスである」という書簡を送っています。

 戦後日本には天皇も総理大臣も国会もありました。しかし、その決定権は米国が持っています。日本はアメリカに間接統治されていたのです。しかし、米国の指示は国民には見えません。指示を執行するのは日本政府です。米国が日本政府に命令を出している場面は国民には見えませんから、日本は独立しているように見えます。

 この関係は占領時代のみならず、現在まで続いていると著者は言います。そういう眼で現代史をみると、なるほどと頷けるところが多いと私は思います。
 今も日本はアメリカの保護国なのです。
                    
 
                                    代表社員 前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 18:24| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月03日

4月の言葉!「浮客から顧客へ、そして固客へ」

「浮客から顧客へ、そして固客へ」

 3月15日(今年は17日)確定申告も終り、恒例の打ち上げをある居酒屋で行ないました。料理が次から次から、しかも味もまずまず、しかも飲み放題。値段を幹事に聞くと5000円と言います。5000円ならいい料理が出るなと思っていたら、何と飲み代含めてとのこと。料理3500円、飲み代1500円ということでした。どこで、こんな店を探したのか聞くと、ネットだと言います。社員の誰も一度も来たことのない店でした。一昔前には考えられない選択行動です。今、ITの進歩、インターネットの情報の量と質はすごいものがあります。
 そして、その情報の流れに乗って、買い物を行なう「浮客」という層が増大していると言います。まさにフリーペーパーやインターネットで店を探すという今の若者はこの浮客と呼ばれるものなのでしょう。

 商品・サービスを利用する主因が、その企業哲学や製品に対する固定した愛着ではなく、価格が安いことや一時的な興味(おもしろそう)で利用する層です。もしも次の日により安い店、より興味をそそられる製品があれば、そちらへ行ってしまう購買スタイルを持つお客様です。
 ライフスタイルを楽しむというより、消費を楽しむ事が目的の層だと言えます。しかし、この客層に中小企業が頼るわけには行きません。もちろん浮客が固定客になることもあるでしょうが、浮客が増えることにより、今までの馴染みの方々が不愉快になったり、質・サービスが低下したりしては元も子もありません。やはり我々は原則として浮客ではなく顧客をターゲットにすべきです。しかも、顧客の中から生涯顧客・固客を創り出さなければなりません。
 一時の安売りやキャンペーンも時には必要かもわかりません。これも、固客を創り出すためのもと考えるべきです。(一時の売上を上げるためではなく)

 固客とは何か。これは、お客様と我々が情報の交流し合った関係になっているものではないでしょうか。もちろん製品・サービスを提供する側もお客様の好み、趣味、家族構成等々を知りつくし、どんな製品、どんなサービスが良いか、その場、その時で対応してゆける提供側であることと、お客様もその店の良さ、質の高さを熟知し社員とも交流がある、そんな相互に認知しあった心の交流が、満足を生む関係が固客ではないでしょうか。
 そこには、お金では買えない安らぎや充足感が満ちており、心の安定や満足に浸れるそんな空間があるのです。浮客から顧客そして固客です。

 では、固客はどうやって創り上げるのでしょうか。
店側が提供できるものは3つです。建物とか商品とかのハードウェア、提供するサービスのソフトウェア、そして社員がかもち出すヒューマンウェアです。お客様はまず提供される店づくりや商品に感動し、その次に洗練された接客態度に感銘し、最終的にはサービスを提供する社員の人間性や人間関係に魅力を感じ、人のぬくもりやふれ合いを楽しんでゆくことになります。
 ハードウェアもソフトウェアもヒューマンウェアも必要です。店づくりや製品・商品ももちろん大切です。接客態度も大切です。しかし、ハードウェアやソフトウェアは一度提供を受けてしまえば、それが当たり前となり、陳腐化します。よりよい店があれば、インターネットで別の店を探せれば、お客様はそちらへ行かれます。
 それを引き止めるのは、社員の付加価値による魅力づくりです。人という付加価値だけは、プロフェッショナルとしての哲学を失わない限り、陳腐化はあり得ません。
 ITの発達による人間関係の希薄さ、ドライ化がその逆として、孤立化したくない客層を固客として呼び込む土台を作ってくれているということも皮肉ですが、大きな要因としてあると思います。
 
 ヒューマンウェアの本質はホスピタリティです。心のこもったサービスとは違います。サービスとはマニュアルであり、100人に対して1つの均一な対応をしてゆくものです。
 ホスピタリティは、1人に対して100通りのサービスを行なうことです。その時その場に応じ、サービスの内容を変えてゆかねばなりません。そこには、マニュアルはありません。
「ホスピタリティとは風呂敷のようなものだ。包むものに応じて変えてゆく。本や瓶や果物までありとあらゆるものを1枚の風呂敷で包んでしまう」と言う方もいます。

 このホスピタリティを生むものは、社員一人一人のプロ化です。従来の顧客満足(CS)=社員満足(ES)として社員満足度を高めてゆくことに企業は必死でしたが、今やそれだけでなく社員のプロ化(EP)が求められてゆく時代となりました。
 プロとは、お客様のニーズを先読みし、一人一人のお客様の好みに合せた個別の対応を高いサービスレベルで提供でき、心温まる関係、心休まる空間を創り出せる人のことです。
 プロとしての哲学を持ち、企業方針を正しく理解し、それを日々の業務で反映させ、練磨し、常にお客様に夢を感じてもらい時には勇氣づけられ、時には癒される空間を創りつづけ、日々自己を高める努力を惜しまない人のことです。

 今や、本当のマーケティングを行なえる経営者が必要とされる時代がきました。目先の利益を追わない、お客様と長期的視野に立った人間関係が構築できる社員づくり、社風づくりが求められています。今こそ、経営者がしっかりとした哲学を持ち、会社の隅々まで経営者の理念がゆき届くよう徹底した社員教育を行ない、あらゆる問題に経営者自身が真正面から取り組み、難問を全社的に解決するプロセスを社員に見せることにより、心技体のバランスの良い人財が育ってくるものです。現場主義とは現場のことを社員まかせにすることではなく、現場の問題を経営者自らの問題とし、それを社員と共に解決してゆくプロセスを社員教育の場として捉えることを言います。
 インターネット時代の最強のツールは人間力であり、その力は経営者の器から溢れ出た人間的魅力を社員が血肉とするところから始まります。 
インターネットの時代だからこそ、人間力の高い経営者にとっては最良の時代なのかもしれません。                    

                               代表社員 前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 10:37| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月03日

3月の言葉!「雪中行軍」

「雪中行軍」

 今年の冬は、雪が多い冬です。ノーマルしかはいてない私にとっては恐怖の年になっています。そんな中、2月7・8・9日と3日間、清水英雄先生主催の富士山表現道研修というのが、山中湖、ホテルマウント富士で行われました。私どもから社員が5名参加しましたので、私も2月8日サプライズで途中からですが、参加しようと準備をしていました。

 すると、なんと2月8日(土)は大雪、午後岡山駅を経つ予定を急遽、8時30分に変更し、新幹線に乗り込みました。新幹線が岡山駅を離れるやいなや、三島駅からホテルマウント富士行のバスが、運行停止との連絡が携帯に入り、前途多難な行く手を思いました。途中、雪のため姫路まで1時間かかり、普通なら4時間程度で行く三島まで6時間30分。三島駅には3時前の到着でした。

 もちろん、大雪の三島駅、予定していたバスは運休ですのでタクシー乗り場へ。長い行列の最後尾。なかなかタクシーも来ない状況。ひとつ妙案が浮びました。
「そうだ、御殿場へ行けばいいかも!?」と御殿場は三島よりも山中湖に近く、タクシー代も安い。これは妙案と沼津へ行き、そこから御殿場線へ乗換。沼津でも少し待ちはしたものの、御殿場行に無事乗車、夕方4時。普通なら、30分で御殿場へ。そこから30分で山中湖のホテル。おいしいフランス料理とワインにありつけると心の中で思わずニコッ。しかし、現実はそんなに甘いもんではありませんでした。

 沼津から3つ目の駅で、沼津方面の列車が遅れるということで1時間、ポイント故障ということで1時間、合計2時間待たされ、その後も、踏み切りごとに安全確認。JRの駅員さんが猛吹雪の中、いちいち列車を降りて目視確認。動いては止まり、止まっては動き。何と、御殿場に着くと夜の9時(通常30分で行くところ、5時間かかりました)。
 外は真っ暗、猛吹雪。横なぐりの雪を頬に受けながら、タクシーを待つこと30分。段々、感覚がなくなるのが分かりました。やっと乗ったタクシーに山中湖行きを告げると、運転手さんは驚いたように「NO!行けません!通れません!」とつれない返事。仕方なく、今夜は御殿場泊り。

 しかし、これがまた大変。タクシーでホテル廻り。空室を探したのですが、どこも満室。雪でみんな足止めされ、駅前のホテルは空室ゼロ。仕方なく少しはずれのホテルへ。しかし、ここも満室。6〜7軒廻ってやっと宿泊。時計は10時。「夕食はありますか?」に「NO」。 「近くに食事できるところはありますか?」に「NO」。
 結局、近くのコンビニを教えてもらい、おにぎりと玉子スープとビールで一夜(でも、泊まれたことが本当に涙が出るくらいうれしかった!!)。

 翌朝、タクシーは来ないということで、7時30分ホテル出発。雪は止んでいましたが、1mほど積もっている雪道を駅まで歩きました。歩道は雪で歩けないので、車道をテクテクと。御殿場駅着8時30分。ここでタクシーに「山中湖へ行って」と言えば、「通行止めで行けません」と再びつれない返事。仕方なく三島駅に戻り、三島から再チャレンジ。昨日が嘘のように40分で三島駅へ。10時に三島駅のタクシーに乗り込み山中湖へ。

 ほっとしたのも束の間。営業所から連絡が入り、「チェーン規制が出て行けません」と。三島駅に居るタクシーは全てスタッドレスタイヤ、御殿場のタクシーはチェーンを巻いていると運転手さんの助言。7000円払って、御殿場駅へ。そこで運転手さんが御殿場のタクシーと交渉してくれ、何台かのタクシーにあたってくれました。
 結果はダメ。行くことはできるのですが、帰れないということ。よく聞くと、山中湖には二本の道があり、この一本が通行止めのため、通れる一本に車が集中し、帰りが大渋滞になるため、行けないではなく、行かないということでした。
 万事休す。時計は正午12時。トボトボと岡山へ帰るしかなく、帰って来ました。

 今回の件、情報収集能力、判断能力の甘さを痛切に感じました。
 第一は初日、三島駅で行けないのに御殿場へ向かったこと。まずこれが失敗の第一。右往左往せず、どっしりと情報を集め、行動すればと思います。
 第二は御殿場線の三つ目の駅での意思決定。御殿場から沼津の列車が遅れているということは、これから御殿場に向う列車はより遅れる可能性があると判断すべきでした。ここで、御殿場をあきらめ、三島へ帰ることが必要だったかもしれません。 
 第三は翌日、三島へ帰り、三島からタクシーに乗ったこと。御殿場にもっと居て御殿場からタクシーで向かう方法を検討すべきだと思いました。
 ともあれ、雪の恐ろしさと自らの判断の甘さをいやというほど感じた2日間でした。
 

                         代表社員 前原 幸夫
posted by 前原幸夫 at 18:07| 今月の言葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする