私は現在新聞を4紙取っています。やはり経済の動きを知るためには日本経済新聞。
地元岡山の出来事が多く載っている山陽新聞、妻が四コマ漫画「コボちゃん」が好きなので読売新聞。それに加え週刊ですが日本講演新聞という少し変わった新聞の4紙です。
日本講演新聞の社長であり、魂の編集長と言われている水谷もりひとさんの講演会と交流会が、先日倉敷でありましたので参加して来ました。
この新聞、以前は宮崎中央新聞といっていました。上記3紙と違い世の中の出来事、(特に暗い)殺人だの災害だのというような事件・事故は全く扱ってなく、色々な講演会を取材し、面白かった話、感動し心温まった話などを掲載している新聞です。
例えば、2969号(3月20日号)は、鉄道デザインの水戸岡鋭治さんの『だから日本には「美しい文化」が必要だ』というお話がメインで、編集長 水谷さんの社説『ネット検索で見つからない問い」やコラムがブランケット版両面2ページに渡り満載です。
なぜこんな変わった新聞を発行するようになったのか、訊いてみたい疑問の一つでした。
水谷さんの講演の中で、学生時代すでにフリーペーパーを発行しており、そこで知り合った現会長の松田くるみさんと結婚され、お子さまが産まれた後、郷里の宮崎へ帰り、宮崎中央新聞社(その当時は山陽新聞と同じ地方紙)へ就職。会社は発行部数も少なく赤字。平成2年バブル崩壊の中、水谷さんが経営を引き継ぎ現在のスタイルに変更し30年を過ぎたと言われ疑問の一つが解決しました。
最初は発行部数も少なく、奥様の松田くるみさんが、1日100軒の飛び込み営業(しかも一軒も飛ばさず)を3年間やったと言います。
だんだんと読者が増え、今では全国に1万5千部発行。社員も14名ということでした。
水谷さんのお話しの中で一番印象に残ったのは水谷さん自身が単なる編集長ではなく、”魂の“という冠をつけ「魂の編集長」と名乗る魂についての話しでした。「心を込めて料理を作ります」とは言うけれど、「心を込めて日本刀を作ります」とは言いません。やはり日本刀のようなものは「魂を込めて」と言います。なぜ、どう違うのか。心を込めるというのは、自分の念いを自分個人の心をそのものに込めるということ。魂を込めるということは、自分一人の念いだけでなく、先人たちの念いや技、先祖の志・歴史・文化、それら全てを込めるということだと言われます。講演をされ記事にさせていただく方の念いのみならず、その方の全ての関わりのある方々、恩師や先達、ご先祖までの念いを込めて紙面づくりをしているのでしょう。まさに魂の紙面です。
今の豊かさや自由や平和は私たちが創り上げたものではありません。長い歴史、先人・先祖の皆さんの命、犠牲、ご苦心、言葉では言えない御恩で築かれ私たちは今こうして仕事をし、生活しています。そうだとしたら今の生活や仕事、それらは先人や先祖の方々が本当にやりたかったことであり、在りたかったことではないのか。だからこの豊かさ、自由さ、平和に安住することなく魂をつかわなければならない。まさに魂を人の為に燃えたたせ、削りつくし、燃えつくさなければならないと魂の編集長は言われます。人の為に自分の命を、人の幸せのために自分の魂を燃え尽すこと、これが生きる価値かもしれません。
その例えとして、一人のご身内のお話しをされました。
水谷さんご夫婦のご長女の義母にあたる増田芳子さんのお話しでした。水谷さん夫婦の長女さんは大学3年の時妊娠しお腹が大きくなったと言います。ご夫婦は長女へ2つの事を厳命します。一つは、好きなように、思うとおりにしなさい。それを我々はどんなことがあっても応援する。二つ目は大学だけは卒業すること。この二つです。
長女さんは出産を決意し大学を卒業しました。お腹の大きいまま教職課程の教育実習にも行ったそうです。そして、今は教師をやっておられます。
その長女さんが出産し、義娘を義母である増田芳子さんが産後のお世話をするため宮崎の片田舎から鹿児島まで来られたそうです。長女さんと孫の世話をした後に入院され、半年経たずにお亡くなりになられました。末期がんだったとのこと。
増田さんは自ら末期がんであることを誰にも言わず、自らの力の続く限り義娘とお孫さんのお世話をしておられたのです。
長女さんが大学3年で妊娠し学業をしながら出産したからこそ、このご主人のお母様 増田芳子さんに孫の顔を見せてあげることが出来た。増田さんに初孫を抱かせることが出来たのです。それに応え、増田さんも自分の命を顧みず、孫や産後の義娘の世話をまさに命を削りながら魂を燃えたたせながら行ったのでしょう。そして、命を削り尽くし、魂を燃やし尽くし天国に召されました。
人生は人との出会いによって変わると言います。
日本講演新聞は、毎週毎週その人との出会い、普段出会うことのない人との出会いを提供してくれます。月額1,300円です。
この新聞が10万部、100万部となる事を祈って倉敷を後にしました。
代表社員 前原 幸夫

